「SHARE LOUNGE  外苑前」を見学ーー現代的なワークラウンジと不思議なイベント空間。

「SHARE LOUNGE  外苑前」を橘川さんたちと見学。男性3人、女性5人。12月1日にオープンしたばかり。

KDDIウェブコミュニケーションズの山崎雅人社長(YAMI大学)の説明を聞く。

  • ツタヤとの提携。シェアラウンジ=ワークラウンジ。煩悩を払う108のスピーカー。
  • 本:「古典ラジオ」(COTEN)との提携による歴史本。雑誌「ムー」との提携によるスピリチュアル系。篠田真紀子(『LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる』『ALLIANCE アライアンス —— 人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用』監訳。茨木のり子詩集』(谷川俊太郎Audibleのアプリでも気になった場所にブックマーク「聴き合う」ことで組織改革の手助けを行うエール3000人)。荻田康永(北極探検家。冒険研究所書店・『考える脚』)
  • イベントスペース:音楽・香り・光。130人。3分割。配信。せせらぎ(下)と鳥のさえずり(上)。横尾忠則の60年代ポスター展。音楽と美術のコラボ。著者と読者の交流雑談会。
  • ワークスペース。ラウンジ。アメニティ。スナック、アルコール。厳選した書籍。音にこだわった仕様。抜群の眺望。ワーク・スタディ。書斎仕様の個室。リモート可。8時―22時。

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                     横尾忠則

山崎社長から説明を受ける。

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ラウンジ      ワークコーナー    歴史関係の書棚   雑誌「ムー」


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フリードリンク     アルコール     アニメグッズ    半個室

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見学終了後は忘年会。青山の「龍府」にて。

見学の前は神保町の古本屋で本を物色。

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「名言との対話」12月19日。吉田五十八「日本建築は凍れる長唄

吉田 五十八(よしだ いそや、1894年明治27年)12月19日 - 1974年昭和49年)3月24日)は、昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家である。

東京出身。五十八は、父の58歳の時の子であったことからついた。東京美術学校岡田信一郎に学ぶ。8年かけて卒業し吉田建築事務所を開設。1925年、欧州を巡り、伝統や民族を前提とした古典建築に感銘を受ける。日本人にしかできないものとして数寄屋造の近代化をテーマとする。近代数寄屋建築として注目された。1946年から1961年まで東京美術学校教授(1949年~東京芸術大学)を務めた。1963年から68年までは皇居新宮殿造営顧問。 1964年、建築家として二人目の文化勲章を受章。

第4代歌舞伎座は和の巨匠である吉田五十八が担当した。第5代は隈研吾である。歌舞伎座」は、洋風の1期は福地源一郎。2期は純日本式宮殿風。城郭と寺風の3期は岡田信一郎モダニズムと和風の組み合わせの4期は吉田五十八である

画家の家や画室は吉田の独壇場だった。鏑木清方小林古径川合玉堂梅原龍三郎。山口蓬春。これらはみな吉田だった。政治家では、吉田茂岸信介の邸宅。その他、東京ヒルトンホテル、外務省飯倉公館・外交史料館などがある。

『饒舌抄』(中公文庫)は吉田唯一の随筆である。住宅は住む宅で、どこまでも見せる宅ではない。だから家人にとって住みいい家であり、又来る客が長く居られて家人と親しめる家であって欲しい、日本人には日本特有の雰囲気がかもし出された家が本当にいい住宅であると思う」。この中で、佐伯泰英は「小家と雄大な自然が織りなす一体感は、吉田五十八建築の妙だと思う」と語っている。

以下、吉田五十八について。

  • 2012年に読んだ佐伯泰英初の書き下ろしエッセイ「惜櫟荘だより」(岩波書店)は、文化人・岩波茂雄と名建築家・吉田五十八の意地のぶつかり合いの結晶だ。「どこからでも海が見える設計」のその惜櫟荘の修復の物語である。熱海の自宅の隣にあった「惜櫟荘(せきれきそう)」を買った。この建物は岩波茂雄のが精魂を傾けた名建築の別荘だった。この別荘は、岩波文庫の売り上げによって建てられた。それを時代小説文庫描き下ろし作家が受け継いだことになる。「れき」は椚(くぬぎ)の木のことだ。五十八マジックという言葉も出て来る。
  • 2017年に大磯の旧吉田茂邸を訪問。近代数寄屋を確立した吉田五十八がつくった家屋を再現したものだ。庭園は中島健と久恒秀治(日本庭園研究家)によって設計された。吉田邸の作庭は当初中島と久恒の二人で取り組み、先輩の久恒主導で進んでいた。久恒は日本庭園の研究で一目置かれる存在で、桂離宮の研究や、土砂に埋もれていた銀閣枯山水を発掘・復元したことで知られていた。庭づくりで久恒は吉田茂と意見が合わず、仕事から退いたという。
  • 日本画家の山口蓬春の同級生の吉田五十八は、「あらゆる意味で完成されたひと」と語っている。世田谷区祖師谷のアトリエ、後の1953年に完成した葉山の新アトリエも吉田の設計である。葬儀委員長もつとめた。葉山の新アトリエは、山口蓬春記念館となっている。
  • 鎌倉に吉屋信子記念館があり、一度訪ねたことがあるが、休みで入れなかった。この記念館は本人の遺志により、鎌倉市に寄付されたものだ。設計は有名な吉田五十八だった。
  • 2022年。京都の北村美術館。日本の山林王・北村又左衛門の次男の北村謹次郎は京都数寄屋の名棟梁・北村捨次郎と出会い。北村が40歳の時に完成したが、進駐軍の接収で戻って来た時には荒れ果てていた。近代数寄屋建築の吉田五十八が改築した。

吉田五十八長唄は玄人はだしであった。「建築は凍れる音楽」という言葉があるが、それをもじって「日本建築は凍れる長唄」と言ったという。長唄とは何か。三味線音楽の一つで、歌舞伎や芝居の演奏から始まって、やがて独立した。唄と三味線の音楽である。ユーチューブの長唄講座で、杵家弥江道の解説と「都風流」を聞いてみた。作詞は久保田万太郎で、浅草や都で行われる様々の市の様子を季節と絡めて歌う。「これよりして お馬渡しや羽織不二」から始まり、最後の句を次の句の冒頭にのってきて、連ねていく。俳句の連なりで都を表現する。

これを聞いて思ったのは、長唄のテーマは「日本」だということだ。だから、吉田は長唄を愛したのであろう。その長唄で表現される日本を建築という形に凍らせたというのだろう。