銅像「品川弥ニ郎」「大山巌」「大村益次郎」「出征を見送る家族の像」。「ガエ・アウレンティ」展(イタリア文化会館)。万葉歌碑「鷺坂の歌碑」。 

昨日は好天に誘われて、千鳥ヶ淵を散策。銅像を見てきました。

子爵品川弥ニ郎卿像。

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品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年2月26日)は、日本官僚政治家栄典正二位勲一等子爵

 

元帥陸軍大将大山巌公像。

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大山 巌(おおやま いわお、天保13年10月10日1842年11月12日) - 大正5年(1916年12月10日)は、日本政治家陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老貴族院議員を歴任した。称号階級元帥陸軍大将栄典従一位大勲位功一級公爵

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靖国神社。「戊辰戦争(戊辰の役)やその後に起こった佐賀の乱西南戦争西南の役)といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬さかもとりょうま吉田松陰よしだしょういん高杉晋作たかすぎしんさく橋本左内はしもとさない といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争日露戦争第一次世界大戦満洲事変・支那事変・大東亜戦争第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して、国家防衛のためにひたすら「国安かれ」の一念のもと、尊い生命を捧げられた方々の神霊みたま が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます」。

大村益次郎像。

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大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日1825年6月18日 - 明治2年11月5日1869年12月7日)は、幕末期の日本政治家軍人医師学者維新の十傑の一人。日本陸軍創始者、陸軍建設の祖。

 

出征を見送る家族の像。

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嗚呼 あなたは防人として旅立つのか 

齢を重ねた父母

愛しき妻 そして愛し児たち

皆があなたの帰還を待ちつつも

嗚呼 息子よ 夫よ 父よ 兄弟よ

天界のあなたを偲び、あなたが遺してくれたものを受け継ぎ、

今も家族は故郷にあります

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イタリア文化会館「ガエ・アウレンティ」展。この建物のデザインを手がけた建築家・デザイナー(1927-2021)。ポンピドゥー・センター(パリ)国立近代美術館プロジェクトや、オルセー美術館(パリ)やパラッツォ・グラッシ(ヴェネツィア)の改修、アジア美術館(サンフランシスコ)など美術館建築の分野で世界的に活躍した建築家

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万葉歌碑の旅。

  • 千秋文庫(旧秋田藩主佐竹家の資料館)の歌碑は撤去されていた。残念。
  • 東京都文京区小日向の鷺坂。江戸川橋から200m。

「山背(やましろ)の久世(くせ)の鷺坂(さぎさか)神代(かみよ)より春は萌(は)りつつ秋は散りけり」

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「名言との対話」1月14日。広岡浅子犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません」

広岡 浅子(ひろおか あさこ、旧字:廣岡淺子。1849年10月18日嘉永2年9月3日) - 1919年大正8年)1月14日)は、日本の実業家、教育者、社会運動家

豪商三井家の四女で、17歳のとき大阪の広岡信五郎と結婚。維新後は実業界に入り、炭鉱経営や銀行設立などに携わった。日本女子大学校(現日本女子大学)設立など、女子教育の推進や婦人運動にも尽力した。

日本女子大成瀬記念館で買った「広岡浅子関連資料目録」を読んだ。NHK朝の連続ドラマの主人公・広岡浅子の講演録が納められており、興味深く読んだ。「なぜ老年になっても元気なのか」という問いに、「無限の希望」があるからだと答えて、少女時代から老年に至るまでの「希望」を語っている。彼女の一生がわかる。

少年時代「我日本の旧習を脱し暇あれば男子と共に素読して、必ず女子の頭脳は開拓せらるべしとの希望を以って、大に力を養ふ事に努めたり」

青年時代「広岡家は大阪の富豪なれば、其主人は少しも自家の商業に関せず、万事支配人政治にて、日毎、謡曲茶の湯等の遊興を自己の業の如く思慮しつつあるが如し。之を見て余は斯くの如き有様にて永久に家業繁盛の継続するや否やの疑問を生ぜり。故に一朝事あれば己れ自ら起たざる可からずと意を決し、其準備に努めたり。そは簿記法、算術、其他商業上に関する書籍を、眠りの時間を割きて夜毎に独学し、之れに熟達せん事を我が希望とせり。」

壮年時代「断然意を決し日本女子大学校発起者に加名するの栄誉を担へり。、、、将来の希望に向って尽力するをこよなき愉快なる事となしたりき。」

老年時代「我希望の果されん日は前途尚遼遠なるを覚ゆ。然れども死生の別を考慮する暇あらず。今尚無限の希望に充ちて、百年の計画を行ふ之れ余が老いぜざる大なる原因ならずんばあらず。」

日本女子大の学生たちへの講演録から。「犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません。」「人格修養の最も簡単な一方法は、一挙手一投足も無意味にしないと云う事であらうと思います。」「男子を感化し、男子の力を悉く有益高尚なる目的の為に、捧げさせる事が出来るのであります。」

広岡浅子の主張は、女性自らが主人公になることもいいが、家庭を持っても日本婦人は男子を日常的に感化し、無駄なことをやめさせ、社会のために働くように仕向けることである。広岡浅子は1919年1月に逝去しているのだが、10歳ほど年下の日本女子大創設の成瀬仁蔵もその3月に60歳で卒している。ほぼ同時に亡くなるのは偶然であろうが、近代を切り拓いた二人の志は次世代に引き継がれていく。

 

参考

「デジタル大字泉」