42回目の結婚記念日。ルビー婚(40年)からサファイア婚(45年)へ。

今日は43回目の結婚記念日。このことを話題にしながら近所で昼食を食べる。山谷もあったが、なんとか一緒に乗り切って、ここまできたという感慨を共有。

イギリス式の結婚記念日は以下の通り。

1年目:紙婚式。2年目:綿婚式。3年目:革婚式。4年目:花婚式。5年目:木婚式。6年目:鉄婚式。7年目:銅婚式。8年目:ゴム婚式、青銅婚式、電気器具婚式。9年目:陶器婚式。10年目:アルミ婚式、錫婚式。11年目:鋼鉄婚式。12年目:絹婚式、亜麻婚式。13年目:レース婚式。14年目:象牙婚式。15年目:水晶婚式。20年目:磁器婚式。25年目:銀婚式。30年目:真珠婚式。35年目:珊瑚婚式。40年目:ルビー婚式。45年目:サファイア婚式。50年目:金婚式。55年目:エメラルド婚式。60年目:ダイヤモンド婚式。75年目:プラチナ婚式。

今日の結婚記念日は42回目、ということは2年前にルビー婚だったことになる。3年後はサファイア婚、8年後は金婚、13年後はエメラルド婚、18年後はダイヤモンド婚、33年後はプラチナ婚。結婚記念日を祝うのは、夫婦二人とも元気でなくてはならない。

因みに私たち夫婦の場合はこうなる。金婚は81歳と74歳。エネラルド婚は86歳と79歳。ダイヤモンド婚は91歳と84歳。プラチナ婚は106歳と99歳。

さて、どこまでいけるだろうか。

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「名言との対話」2月7日。岩崎弥太郎「創業は大胆に、守成には小心なれ」

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体岩﨑 彌太郞天保5年12月11日1835年1月9日〉- 明治18年〈1885年2月7日)は、日本実業家三菱財閥(現:三菱グループ)の創設者。

土佐藩の回漕業務を一任されていた岩崎弥太郎は、廃藩置県後、九十九商会を買い受け1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開する。三菱は土佐藩山内家の家紋「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものである。三菱商会は、明治10年西南戦争の軍事輸送を担当したことがあり大いに飛躍する。郵便汽船三菱会社と改名し、渋沢栄一井上馨らのつくった共同運輸と争った後に対等合併して1885年に日本郵船が設立された。三菱財閥の創業者岩崎弥太郎は2月7日に50歳の若さで死去した。

岩崎弥太郎は、海運から始めて鉱業、造船業、保険、為替など事業の「多角化」を図った。二代目の弟・弥之助(1851年生まれ)は海から陸へと事業「領域を広げ」、丸の内・神田に10万坪の土地を買った。その後、弥太郎の息子の久弥を経て、弥之助の息子・岩崎小弥太(1899年生まれ)は30年の長きに亘り社長業を続け、部門毎の「分社化」に取り組み重工(造船)、商事、銀行、地所と優れた企業をつくっていった。

創業者・弥太郎は、危ない橋を何度もわたり成功をおさめた。激動期を大胆に行動し乗り切っていった。時代背景が違うのであり、守る立場になったなら小心に細心にという子孫に残したこの言葉を子孫たちは家訓として実行していった。人が集う組織のあり方への優れた教訓である。

その後の発展は誰もが知るところなので、以下、岩崎家の実業以外の文化的遺産を書いてみよう。

旧岩崎邸。

弥太郎は庭が好きだった。柳沢吉保のつくった駒込の12万坪の六義園を伝統的な庭として購入する。また理想の庭として、江東区清澄庭園買い、修復する。そして三菱総本家の本部として越後高田藩榊原家が所有していた湯島4丁目と池之端1丁目にまたがる小高い1万5千坪を購入した。弥太郎は明治11年からこの地に住んだが、18年に50歳で死去する。2代目の岩崎弥ノ助の後を継いだ岩崎久弥(弥太郎の長男)は1896年に現在の洋館などを建設する。

三菱一号館美術館

丸の内に2010年4月に開館した三菱一号館美術館岩崎弥太郎の興した三菱は、陸軍用地だった丸の内を政府から1890年に一括購入し、この地を地震に耐える洋風建築の林立する事務所街にすることを決める。第二代社長・岩崎弥之助(1851-1908年)は、ジョサイア・コンドル(1852-1920年)に丸の内における三菱初の洋風建築事務所である旧三菱一号館(1894年竣工、1968年解体)の設計を任せる。三菱は丸の内を単なる事務所街ではなく、文化的な街に醸成しようという意図を持って、美術館や劇場を作ろうと試み、コンドルは「丸の内美術館案」と銘打った図面を残しているが、その夢は実現しなかった。一号館は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されたが、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地によみがえった。ここが夢であった美術館になった。洋館の外観とまわりのレストランと緑の配置はいい雰囲気を醸し出している。

静嘉堂文庫美術館 

二子玉川の世田谷区岡本の国分寺崖線の一画に4600坪の緑豊かな岡本静嘉堂緑地という庭園がある。ここは三菱の二代目・岩崎弥之助の土地であった。静嘉堂とは、弥之助の堂号で祖先の霊前への供物が立派に整うという意味である。静嘉堂文庫には、20万冊の古書籍と6500点の東洋古美術品が収納されている。その文庫百周年記念事業として美術館が建てられた。

弥之助は、中国陶磁も含めた東洋美術の一大コレクションを夢見ていた。弥之助は、絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣などを蒐集した。小弥太は、中国陶磁を学術的観点から系統的に蒐集した。中国陶磁は800件を数える国内有数のコレクションである。最近、分館が●丸の内にできた。一度訪ねたが、いっぱいで入れなかった。

 

岩崎弥太郎の言葉。

  • 樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。
  • 酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。
  • 機会は人間一生のうちに誰でも一度や二度は必ず来るものである。それを捉え損ねると、その人は一生立身できない。
  • 事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。
  • 平々凡々と人の下にいるのは、死ぬこととさえ同じ。これは私の性格である。
  • 国家的観念をもって全ての経営事業にあたるべし。
  • 機会は魚群と同じだ。はまったからといって網をつくるのでは間に合わない。