図解塾ーー「諸文明における宗教の層序学」の2回目は「中国」と「地中海」がテーマ。

「図解塾」6期⑨を開催した。

・「哲学と宗教」の共通点と相違点について意見交換。世界と人間を丸ごと理解しようという共通点。哲学は「疑う。真理。論理。理性。言葉。出口」。宗教は「信じる。神。体験。やすらぎ。入口」。「科学」はエビデンス

・中国の諸子百家の説と、ギリシャの哲学者群の主張を並べて理解。

「諸文明における宗教の層序学」の2回目が本論。前回の「インド・イスラエル・アラビア・イラン」のおさらいの後、「中国」と「地中海」をテーマに図解講義。

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。図解塾、本日も『梅棹文明学プロジェクト/文明の生態史観』『諸文明における宗教の層序学』をテーマに、久恒先生よりレクチュア頂きました。今回は『中国と地中海との比較』が焦点。まず中国では、第一層(民族単位)で栄えた儒教(「天」~お天道様~の信仰)は、第二階層(外来、侵略)でインドから外来した仏教に駆逐されるが、第三階層(転換と融合)で仏教、道教、新儒教の3つは共存していく。体系化された仏教から知恵を借り、互いに発展。最終的には仏教(公、国家統治)と道教(私、個人生活)との共存する形となった。仏教伝来の際根付いた『精神の耐性』により今度は容易に置き換わる事無くず共存に至ったとされる。一方の地中海では、第一階層で2大哲学(ギリシャ、ローマ)のもと文明が発生し、第二階層でキリスト教が伝来、弾圧も有ったが後にこれがローマの国教となる(中国仏教と共通の歴史)。第三段階ではイスラム教との共存関係を維持し現在に至っており、ここでもキリスト教伝来の際の『精神の耐性』が後押ししている。外国との異文化流入体験を通じ人びとの視座は高まり、互いの『相違』を認め受け入れる…こういう流れが遠く離れた今回俎上の2地域双方に共通して見られる点が本日の『腑に落ちた』ポイントとなりました。先週に引き続き対峙したこの立体的な『構造図』から、①地理的な位置条件、②歴史の中で生じた『固有種発生~侵略・駆逐~融合・共存』という状況の変遷のみならず、③その地域に生きた人びとの『耐性・学習』といった背景にも気づく事が出来、まさにこの『立体図』により全体構造と構成因子感の関係性の理解が非常に深まりました。交通・通信が発達し、遠く離れた国に暮らす者同士による交流・協業や、ウクライナ紛争を始めとする海外ニュースに触れる際、相手との『相違』を身近に感じる機会が有りますが、今回学んだ宗教のみならず、『食』(ハラル、ビーガンなど)、『休息日』(正月休み、休祭日)といった生活習慣上の相違をあらかじめ構造的に理解しておくことは、要らぬ不条理感を回避し未然にトラブルを防ぐ非常に重要な知恵で、この立体図が有効なツールとなる事が理解できたことが本日の収穫となりました。次回はアジア・インドシナ特集との事、引き続きのワクワク感で取り組んでいきたいと思います。有難うございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。今日は「諸文明における宗教の層序学」の2回目で、初めに哲学・宗教・科学の違いについての話がありました。哲学は「疑う」ところから始まり「真理」を追究、宗教は「信じる」ところから入り「安らぎ」を求める、科学は「エビデンス(根拠)を探す」という話で、漠然としていたそれぞれの違いがわかり、なるほどと思いました。 メインのテーマは、地中海(ギリシャ・ローマ)と中国の宗教について。 ギリシャと中国は、ギリシャ哲学や諸子百家と言われるような思想花盛りの時代があって、今に通じるものの考え方がほぼ同じ頃に一斉に芽吹いているところが面白いと思いました。そしてそれらが 時代を経ながら  キリスト教や仏教などの宗教と重なり合って、あるときは併存しながら、あるときは復活しながら、今日に至っているということが分かりました。さらに日本では、これらのものをすべて一旦は取り込んでしまう(もともと受け入れることができるものを持っている)というところも興味深く、今の私たちの生活の身近にある習慣や暦、占いなどのルーツ探しもできそうで、面白く感じました。ありがとうございました。
  • 本日もありがとうございました。世界(ユーラシア)のすべての地域と宗教を1枚に凝縮した図から今回もいろいろと学ぶことができました。中国の諸子百家ギリシャ哲学、倫理社会(私の高校生の頃の科目)で習った名前が断片的に記憶にあるだけでしたが、東と西で対応して結び付けられ、すんなりと頭に入りました。中国の道教儒教、仏教の関係もこれまであまり考えたことがありませんでした。混然一体となっているが、大まかに言えば道教は民(一般大衆)、儒教は官といった構造ですね。日本でも仏教が入ってきたが土着の八百万の神アニミズムが存在し、一部融合されたりし、さらに明治~終戦まで国家神道が形の上では支配した、混然一体という点では同じような感じですね。さらに、安土桃山時代キリスト教が入ってきますが、マリア様が観音様になってしまう、など複雑怪奇です。聴きながら、改めて自分の国の祭りなどの諸行事や信仰(たとえば七福神、お地蔵さんなど)がどの宗教とどんな関係かあまりにも知らなさすぎるのに気付きました。どんどん疑問がわき、知的好奇心が刺激されます。次回は東南アジアということです。タイ、ベトナムカンボジアなどは仏教国ですが、アンコールワットとどういう関係にあるのか実はよく知りません。楽しみです。
  • 本日もありがとうございました。前回からの「諸文明における宗教の層序学」の2回目。それぞれの宗教は、移動、再生しながら、その土地や人たちの心に沿う安らぎとなるようなものに進化し続けている様子を再度確認いたしました。宗教と哲学についてのお話もありましたが、哲学は能動的に考え、宗教は受動的に信じ安らぎを得るものかなぁと、講義全体を通して思いました。この歴史と地理の融合した図を見ながらの先生の講義と、みなさん、おのおのの感想などを聞くと、さらに理解が深まっていく気になり、図解をみながらみなさんとワイワイ話し合うことの良さを感じました。 次回が詳細となっていくのですね。楽しみにしております。
  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回は『中国と地中海との比較』のお話がありました。印象に残ったことは、中国と地中海の第一層から、第三層の宗教の流れです。中国は、第一層儒教、仏教、第三階層は、仏教、道教、新儒教の3つ。地中海では、第一層では、2大哲学のギリシャ、ローマの文明、第二層でキリスト教がローマ国教、第三層は、イスラム教とキリスト教の流れになっている事です。気づいたことは、中国と地中海に限らず、どの地域に対しても共通していえることは、第一層は、地域固有の土着的な民族の宗教が基本としてあり、第二層は、宗教の移動や、流入があり、第三層は、第一層の地域固有の民族の宗教の巻き返しが発生しやすく、第二層の移動や流入してきた宗教と融合した状況になりやすいといった共通項があるのではと思いました。 一部分にとらわれるのではなく、全体的に把握することの大切さがわかりました。次回も楽しみにしております。ありがとうございました。
  • 今日はお誘いいただきありがとうございます! 「そらで考える脱線魔にとって『図解コミュニケーション』はマップにもなり、戻ってこられるという大変便利なツールであるという発見がありました! どんな変な図でもあるといい、変容していくというのが素敵。 「なし」としておくことにより、問いが生まれる「余白」の部分もとても面白かったです! もっと聴きたいと思いました。できたら、久恒さんの使われていた資料を頂きたいです!皆さんあたたかく...寛大であり、感謝です

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月8日。樺山資紀「何事か娯しみに非ざる」

樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月12日1837年12月9日) - 大正11年(1922年2月8日)は、日本海軍軍人政治家。

鹿児島市出身。薩英戦争。鳥羽・伏見の戦、会津戦争に従軍。陸軍に入り、清国との漂流琉球漁民殺害事件の交渉にあたる。台湾出兵の従軍。明治10年西南戦争では熊本鎮台参謀長として奮戦。

その後、近衛幕僚参謀長、海軍次官西郷従道大山巌海軍大臣のもとで海軍次官。。明治23年以降は、山県内閣・松方内閣の海軍大臣となった。翌年に海軍拡張案が否決されると「蛮勇演説」を行って衆議院の解散となる。日清戦争では海軍軍令部長明治28年に台湾総督(初代)。帰国後は、内務大臣、文部大臣を歴任した。

有名な「蛮勇演説」を行った人である。「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全保ッタト云フコトハ、誰ノ功デアル」と薩長藩閥政府の正当性を主張した。

司馬遼太郎が好著とした伊藤潔「台湾--400年の歴史と展望」(中公新書)を読んだとき、樺山の名前をみた。50年に及ぶ日本による台湾の植民地時代で19人の総督が赴任した。第4代総督の児玉源太郎後藤新平民政長官が赴任した1898年から1905年度にかけて、台湾の財政独立を実現した功績は大きい。歴代総督には樺山資紀白洲正子の祖父)、明石元二郎、田健次郎(田英夫の祖父)らの名前がみえる。樺山資紀白洲正子の祖父である。

小田急線の鶴川という駅から歩いて15分ほどのところに旧白洲邸武相荘がある。白洲次郎白洲正子の旧宅が記念館になっている。2006年5月以降、何度か訪れている。ここに、正子の祖父で明治の元勲の一人・樺山資紀の「何事か娯しみに非ざる」という書があったことを覚えている。政治の第一線から引退した後は、郷土出身の子弟の教育事業などに尽力している。白洲正子の子ども時代に祖父の膝の上に載っている写真がある。この人が薩長側の本音を吐露したあの「蛮勇演説」の人だったのだ。

祖父は偉い人であったが、自分にはやさしいおじいさんだったという正子の述懐を読んだことがある。孫の正子の描く樺山像は地味で静かな老人だが、晩年には、どんなことも楽しみに変えて毎日を過ごすことができるという心境だったのだろうと推察する。

樺山資紀は、幾多の戦争をくぐり抜け、政府の要職をつとめて、伯爵となり明治の元勲になった。近代明治国家をつくり上げた一人である。