「知的生産の技術」ゼミ。「蜃気楼大学」事務局会議。ギリークラブの渡辺幸弘さんと情報交換。

「知的生産の技術」ゼミの4回目。

以下、主宰の都築さんの報告。

深呼吸学部+図解塾のグループのイベント、「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」の第4回を終えました。今回は「6 読書」の章だけにしぼりました。これまでと同様、都築の方でまとめた図解をもとに説明し、他に資料を準備された方も資料を紹介して説明し、あとはフリートークで進めていきました。参加者は6名でした。「6 読書」の中でキーになるフレーズは、つぎのようなものでした。
・「食事には栄養ないし健康という面と、味覚のたのしみという面とがあるように、読書にも、精神の糧という面と、心のたのしみとしての読書という面があるのではないか。
・「本というものは、はじめからおわりまでよむものである。はじめからおわりまでよんだ本についてだけ、わたしは『よんだ』という語をつかうことを自分にゆるすのである。一部分だけよんだ場合には、わたしはその本を『みた』ということにしている。」
 ・「この本はたしかに『よんだ』ということを確認するために、その本のどこかに、そのことを記入するのである。わたしが『よんだ』のはたしかにこの本である、ということを確認する作業として、読書カードの作製ということを実行している。」
・「たいせつなところや、かきぬいておきたい個所には傍線をひく。よみあげた本を、もう一度はじめから全部めくってみて、ほんとうにノートしておく値うちがあると思われるところだけをノートにとる。実質的には1冊の本を2どよむことになる。
・傍線をいれる個所には2つの系列がある。第一の系列は『だいじなところ』であり、第二の系列は『おもしろいところ』つまり『私の文脈』である。カードにかくのは、第二の系列のことがらだけである。」
・「『私の文脈』だけをカードにかくというやりかたは、いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだてていくというやりかたである。これは生産的読書・創造的読書とよべるのではないか。」
梅棹氏の考えについて、参加者からの何人かから「『おもしろいところ』つまり『私の文脈』が大切だということに改めて気づかされた。」という感想があった。一方「はじめからおわりまでよむ」「一気によむ」については、ちょっとついていけないという意見もあった。「本は2どよむ」について久恒氏は「4回よんでいる」というご自身の経験を語られた。話が発展して、今流行の「タイパ(タイム・パフォーマンス)」や耳で聴く「Audible」についてとか、いろいろな分野の本に出会える「知研・読書会」の効用、学校の国語授業で「著者の考えについて正しいものを選びなさい」という弊害などに及んだ。次回は2月28日(火)の20:30~22:00の予定で、7章以降の「かく」という内容について学ぶ。なお、その次は最終回(これまでの総集編+発表について等)で3月14日(火)の予定。そして、3月の最終週あたりで発表し、その後、まとめたものを出す予定。
次は私のメモ。

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「食べる人でなく名シェフの料理法」「4回読む:傍線・赤線・折る・ブログ」「大事な点とこちらのひらめき」「目的に応じた読み方」「ブログと検索」「全集の効用」「図読」、、、、。

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「蜃気楼大学」事務局会議に出席。私は東京新聞朝日新聞への取材依頼をしたこと。FBグループ「そうだ多摩エリアに行こう」「多摩地区何でも情報」「町田・多摩・八王子・相模原を楽しむ」「ふらっと多摩区」への情報提供をしたことを説明。

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ギリークラブの渡辺さんと情報交換。四半世紀にわたり主宰しているセミナーは実に2400回を超えてきているそうだ。刺激をもらった。長い付き合いになるが、学ぶことが多い同世代の友人だ。

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「名言との対話」2月9日。井上準之助 「名を成すには常に窮苦の日にあり。事の破るるは多くは得意の時による」

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日明治2年3月25日)- 1932年昭和7年)2月9日)は、日本政治家財政家

日本銀行第9、11代総裁。山本濱口第2次若槻内閣大蔵大臣に就任。貴族院議員。

大分県日田市出身。日本銀行に入行。英国等に留学し1906年には営業局長に栄進。1910年、横浜正金銀行に入り、1913年に頭取。同年に日銀時代の上司で蔵相となっていた高橋是清の推薦で日本銀行総裁に就任。翌年からの恐慌に際し、産業界の救済に力を注いだ。

1923年の関東震災後にも蔵相となり、モラトリアム(支払い猶予令)などを実施した。1927年の金融恐慌では高橋是清蔵相のもと日銀総裁となった。1929年、世界恐慌の中で金輸出を解禁し、経済界は混乱し昭和恐慌につながっていった。この不況を乗り切るために1931年に重要産業統制法を制定。これが1930年代後半の統制経済への道を拓いていく。

1930年にはロンドン海軍軍縮条約を調印は、天皇統帥権干犯であると軍部の攻撃にあう。浜口首相は、東京駅で右翼青年に狙撃されて翌年に死亡するにいたる。このようして協調外交路線はゆきづまってしまった。そして1932年に井上準之助血盟団の小沼正にピストルで暗殺されたてしまう。

血盟団事件とは、日蓮宗僧侶の井上日召に感化された若者たちが起こした連続テロ事件である。血盟とは血のつながりのある同盟である。宗教的自己犠牲によるテロの実行という構想を持った集団だった。1932年に、井上準之助と三井の団琢磨を暗殺した。海軍将校が犬養首相らを襲った五・一五事件へつながっていく。その甘い量刑が二・二六事件を引き起こす。そして大東亜戦争へとつながっていった。合言葉は「一人一殺」であった。

大分市出身で日銀で秘書として井上に仕えた一万田登によれば、井上は金本位制により軍事予算の膨張を阻止しようとしており、日本を戦争にもっていかないようにしており、青年将校に日本がつぶされないように、軍事予算の無制限の膨張を抑え、平和を守ろうとしていた。しかしこの真意を口にすることはできなかったということだ。

城山三郎の名著『男子の本懐』は盟友であった浜口雄幸井上準之助の物語で、私もじっくり読んで、暗殺された浜口と井上の生涯に感銘を受けている。井上準之助の生涯をながめると、日本が苦境に陥ったときに、上司や盟友たちの懇請によって、表舞台で難局に当たるという仕事ぶりだったことがわかる。「名を成すには常に窮苦の日にあり。事の破るるは多くは得意の時による」は、明治末、大正期、そして昭和の初めという難しい時代に、苦労を重ねた井上準之助の言葉だけに真実を感じる。