出久根達郎『百貌百言』(文春新書)を読んでいたら、鶴彬(つるあきら)という反戦川柳作家がいた。29歳で獄死している。佐高信は「川柳界の小林多喜二」と言っている。
川柳は5・7・5のわずか17文字で、本質をえぐる。著作を読むより、わかりやすいから、官憲の標的にされやすいという面があったのだろう。以下、鶴彬の句。特に最後の3句は、戦争の悲劇を鮮明に表現して心を打つ作品だ。
銭呉れと出した掌は黙って大きい(16歳)
人遂に己に似たる子を産めり
人遂に己に似たる神を彫る
虐使した揚句に病めば首を馘り
飯櫃の底にばったり突きあたる
フッ酸で殺してやろうと採用書
転向を拒んで妻に裏切られ
万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
胎内の動きを知るころ骨がつき(29歳)
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今日の戒語川柳。
好きなのは 卑しさ無縁の 面構え
真偽より その人らしい エピソード
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「名言との対話」2月10日。松浦武四郎「我死なば焼くな埋めな新小田に捨てて秋のみのりをば見よ」
松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 - 明治21年〈1888年〉2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。雅号は北海道人など。
三重県出身。松浦武四郎は、伊勢松坂で生まれた幕末の蝦夷地探検家で、「北海道」の名付け親である。明治政府開拓使判官であったときに、北加伊道という名前を提案した。それは、「日本の北にある古くからのアイヌの人々が暮らす広い大地」という意味である。それをもとに現在の北海道という名前が生まれたのである。アイヌに深い共感と同情を寄せており、アイヌからもっとも信頼された人物だった。父は本居宣長に学んだ人であり、武四郎自身も勤王の吉田松陰や藤田東湖とも親交があった。
この人は興味が広く、そして一日に60キロを歩くという健脚の持ち主であり、日本全国を歩き、その見聞の記録を野帳に書きつけ、それをもとに240冊を超える著作を残した。手間と費用のかかる自費出版も多い。
長崎で北方地がロシアの接近で危ないと知り、僧侶を辞めて28歳で蝦夷地に入り、41歳までの間に6度の蝦夷探検を実行して、151冊の調査記録を残している。3回目までは個人、4回目から幕府のお雇役人としての活動であり、当代一の「蝦夷通」であった。探検という行為は、計画、実行、報告というプロセスがあり、最後の報告が重要なのだが、松浦武四郎の報告は尋常な量ではない。
故郷の松坂市の松浦武四郎記念館の資料をみると、地名、地形、行程、距離、歴史、人口、風俗、言い伝えの聞き取り、などを調査する地誌学者だったことがわかる。『初航蝦夷日誌』・『再航蝦夷日誌』・『三航蝦夷』などの日誌風の地誌や、『石狩日誌』・『唐太日誌』・『久摺日誌』・『後方羊蹄日誌』・『知床日誌』などの大衆的な旅行案内、蝦夷地の地図など多くの出版物を、世に送り出した。この多くの著作は、地図製作の基本資料となり、非常に多くの地名を収録していることから、アイヌ語地名研究の基本文献ともなっている。がある。
2011年に京橋のINAXギャラリーで、「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展を開催していたのをのぞいたことがある。実に渋い企画だった。神田の住まいを終の棲家とし、この家の東側に8年余りの歳月をかけて書斎をつくりあげた。それはわずか一畳の畳と、これを縁取る畳寄せからなる簡素な部屋であった。宮城県から宮崎県から91の古材を集めて、つくった書斎である。西行法師の幅をかけ一日中ここで過ごした。全国各地の縁のあった友人たちの協力で集めた古材に囲まれながら、来し方を振り返っていた。方々を旅し、探検したが、最後はたった一畳で人生の思い出を抱きながら死んでいった。
「我死なば焼くな埋めな新小田に捨てて秋のみのりをば見よ」。日本中をくまなく歩いた末が、一畳の書斎での生活であり、たいそうな葬儀はせずに田んぼの脇に捨ててくれ、秋の実りを自分と思え、というのが最後の心境だったのは興味深い。
松浦武四郎は、幕末から明治の初めにかけて、蝦夷地を誰よりも深く知る人となり、他北海道という日本近代化の象徴となった土地を、結果的に内地に組み込むことに貢献した。ここで思い出すのは梅棹忠夫『北海道独立論』だ。著作集第7巻『日本研究』の中の一項目である。1960年の執筆だから、戦後から始まる現代の初期の時点での北海道論だ。梅棹は「異質化と同質化」「分離か、統合か」「開発論争」などの先に、「独立への道」として「異質・統合」「異質・分離」「同質・統合」を論を検証し、そして最後に「同質・分離」を提案している。同質を前提とした北海道地域主義をエネルギーを母体とした独立論だ。現実はどうか。「同質・統合」と「同質・分離」の間で揺れている感じがするが、どうであろう。