日本薬科大学で長く教授をつとめた「毒薬博士」の船山信次先生の講義。
「薬毒同源」「奈良が面白い」「正倉院薬物」「涌谷町の天平ろまん館」「本と植物と歴史」、、、、、、。
現在、日経新聞朝刊の連載小説の、安部龍太郎「ふりさけみれば」は、阿部仲麻呂が主人公で、本日話題に上った吉備真備、楊貴妃、藤原仲麻呂、光明皇后らが登場する歴史小説で、毎日楽しみに読んでいる。今日の556話は東大寺の造営と藤原仲麻呂への攻撃の打ち合わせの回だ。この時代のことが少しわかりかけたところだったので、興味深くお話を聞くことができた。
『竹取物語』の作者は吉備真備ではないか。真備は右大臣を辞めてからの亡くなるまでの4年間で書いた。真備はカタカナの創始者。翁は不比等ではなく仲麻呂、媼は橘三千代、「かぐや姫」のモデルは宮子と?の二人。藤原四兄弟の死は藤原仲麻呂の毒殺。というのが独自の推理である。
船山先生は、奈良時代は「毒」が支配したという観点から、歴史上の事件を推理して、実に楽しそうに語った。これが知的生産の楽しみなのだ。この本を書くのに、早起きして300冊の本を読み、10年かけている。
早速、次の本を読むことにしたい。
メモ。
以下、受講者の学びから。
- 2月の知研フォーラムは長年知的生産の技術研究会の会員である船山信次先生の「天平時代とかぐや姫の秘密」の講演でした。船山先生は毒の化学構造がご専門ですが、なぜ古代史か?なぜおとぎ話か?非常に謎めいたタイトルの講演で、どんな話になるか期待でわくわくしていました。正倉院に保存されていた毒物のリストにインスピレーションを受け、天平時代に興味をもたれ長年にわたり天平時代に関する文献を300冊も徹底的に読みこまれ考察されてきたことをもとに、あっと驚くような説を展開されました。参加者の一人が「まるで推理小説を読んでいるようだ」と言っていましたが、まさにその通り、次々と明らかにされる謎とその論拠に、興奮しながら聴いていました。少人数で聴くのは全くもったいない、壮大で非常に面白い、知的刺激にあふれた講演でした。群馬県立自然史博物館での毒の特別展示も、ぜひ見に行きたいと思っています。ありがとうございました。
- 日2月17日の知研セミナーでの舟山先生の「天平時代とかぐや姫の秘密」は歴史の裏を読み取るとのはこのようなことかと、興味深く、聞き入りました。当時の歴史上の人物の不可解な死を正倉院に秘蔵されていた毒に絡め、推理を進めて行く話は薬学の知識と奈良時代に対する興味と造詣の深さとの結晶だと思います。かぐや姫の物語に、当時の権力争いの実態が込められているとは考えてもいませんでした。かぐや姫の「かくや」に隠された関係人物と作者の推定はさすがだと驚嘆致しました。非常に勉強になりました。有り難う御座いました。
-
2月のセミナー終了いたしました。今回のゲストは知的生産の技術研究会の会員歴50年を迎える船山信次さんでした。船山さんは薬学の専門家、特に「毒」を専門としていらっしゃいます。多国語での多種多様な著作をお持ちです。日本薬史学会副会長でもいらっしゃいます。 今回のミステリアスなタイトルのキーワードも『毒』です。直近のご著作『毒が変えた天平時代ー藤原氏とかぐや姫の謎』からのお話が始まります。正倉院に60種類の薬物リストがある。という事実を皮切りに、奈良、天平の歴史を紐解き、約38年間続いた天平時代、唐からもたらされた薬や毒が政治体制をも変えるような影響を与えていたとお話されます。お話の中心人物は藤原宮子、藤原仲麻呂そして吉備真備。それに加えて、当時の政治に関わる人物たちの錯綜した人間模様から、『かぐや姫物語』とは一体何を表そうとしていたのか、誰が作者なのか、また『かぐや』の名の由来にいたるまで、論理的かつ資料を紐解き、まるで推理小説のように展開していく貴重なお話でした。内容の詳細は先述の船山さんの著作をお読みいただくとして、日本で最初に金が採掘されたのが宮城県の涌谷町だということは浅学にも知りませんでした。それ以上に、まさか楊貴妃がそこに関わってくるとは意表を突かれました。(とは言え、冷静に当時の歴史を知り、事情を考えれば、当然のことでしたが)もっともっと多くの人にも聞いていただきたい内容でした。船山さん、想像力の掻き立てられる、刺激的かつ壮大な仮説と、その検証をお話していただきありがとうございました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー
- 19時:知研幹部会:明日の蜃気楼大学の打ち合わせ。住所移転に伴う説明と意見交換。4月は小野理事に3月発行の共著の話をしてもらう。
- 午後:大学セミナーハウスまで、明日配る本を運ぶ。鈴木さん、田原さん。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」2月17日。島安次郎「将来を嘱望して、現在の発展を怠ることなかれ」
島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日(明治3年8月7日) - 1946年)(昭和21年2月17日)は、日本の鉄道技術者。
和歌山市出身。東京帝大機械工学科卒。関西鉄道では高性能機関車の開発や旅客サービスの導入など活躍するが、1907年には国有化され、鉄道院に入省する。蒸気機関車の開発に腕をふるった。
当時の鉄道院総裁は後藤新平であった。後藤総裁は線路の広軌化への取り組みに熱心だった。鉄道の2本の線路の内側の距離は輸送力やスピードに大きな影響を与える。欧州では1435mmが標準で「広軌」と呼ばれていた。日本では新橋横浜間の最初の鉄道は1067mmの「狭軌」を採用した。安い方を選んだ大隈重信は後に不明を恥じている。
この二つの路線の対立には長い歴史がある。陸軍は兵員や軍需物資の輸送のために「広軌」を主張していた。満鉄総裁時代にロシアのさらに広い広軌をみていた後藤新平は鉄道院総裁となって、「広軌」を推進した。このとき、技術を担当したのが島安次郎や十河信二だった。「狭軌」を使って、地方に鉄道を引こうとしたのが立憲政友会の原敬だった。地方政界の要求に沿う「建主改従」が、憲政会の「改主建従」を押し切った。狭軌派の総裁は技監であった島のハンコなしに強行している。
島は辞任し、満鉄で筆頭理事になり、汽車製造会社の社長に就任する。1939年には鉄道幹線調査会の特別委員長に就任し「弾丸列車計画」を推進するが、戦局の悪化で頓挫し、「車両の神様」島安次郎は失意の中で死去する。
京浜急行沿線に住んでいたとき、通勤列車が弾丸のような猛スピードで走ることに驚いたことがある。京急は広軌だったのである。鉄道は経済と密接に関係しているが、「広軌」は戦後の新幹線でようやく日の目を見ることになった。それを推進したのは、島安次郎の長男の島秀雄技師長(1901年生)であった。安次郎の部下であった十河信二総裁とともに、父の無念を晴らしたのである。その秀雄の次男の島隆(1931年生)は台湾新幹線の建設に関わっている。島家は三代にわたってすぐれた鉄道技術者を輩出したのである。
島安次郎の子どもや孫たちは、鉄道事業だけでなく、ソニー、朝日麦酒、日本電気などの場でそれぞれ大成している。将来を展望した島安次郎の技術屋魂は引き継がれて、日本の発展に大きく寄与したのである。「車両の神様」島安次郎から始まる三代にわたる近代・現代の鉄道技術への貢献の物語には感銘を受けた。