JAL時代の仲間との食事--川崎の「ともだちのいえ」

JAL時代の仲間たちとの食事会。13時から17時まで。川崎の「ともだちのいえ」にて。

向かって右から浅山さん、中西さん、奥出さん、松岡さん(喫茶経営)、私。

主に客室本部関係で一緒に仕事をした人たち。奥出さん、中西さんとは本当に久しぶりだ。奥出さんは勤労部、浅山さんは国内乗員部、中西さんは訓練部、国内乗員部、松岡さんは国内客室乗員部。当時の私は国際客室乗員部、客室本部業務部。

それぞれの人生模様を聞いた。この「ともだちのいえ」には、『戒語川柳』を3冊置いて来た。関係者が集まったときにみてもらおうか。

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少し早めに着いて、小黒恵子童謡記念館を訪問したかったが、今回は叶わなかった。

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帰って、風呂で色川大吉『ある昭和史ー自分史の試み』(中公文庫)を再読した。色川は1925年生まれ。私の父は1923年、母は1927年だから、同世代である。父母がどのような時代を生きたのかがよくわかる。「常民」の立場から書かれ、1975年に刊行されたこの名著は「自分史」ブームを出現させたことで有名である。

  • 庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民=私の「個人史」を足場にして全体の状況を浮かび上らせようと試みた。、、、、同時代史は、、、めいめいが「自分史」として書かねばならないものだとおもう。
  • その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか、そこに自分の存在証明(アイデンティティ)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?と。
  • 人は自分の小さな知見と全体史とのあいあだの大きな齟齬に気づいてはじめて、歴史意識をみずからのものにする。
  • 個人的なものと全体的なもの、主観的なものと客観的なもの、内在的なものと超越的なものとの矛盾や齟齬や二律背反や関連を認識し、自己を相対化してとらえる眼を獲得することこそ歴史を学ぶ意味ではないのか。
  • 黙々と社会の底辺に生きた常民的な人びとを通して、一時代の歴史を書くことができなかと考える。
  • 地方に、底辺に、野に、埋もれている人民のすぐれた師たちを掘り起し、顕彰し、現代によみがえらせ、その力を借りて未来を拓こうとした仕事ではなかったのか。(橋本義夫の仕事)

私は「自分史」を提唱する色川大吉や、新しい「維新史」を書こうとした渡辺京二の仕事に敬意を払っている。私の「名言との対話」も同じような意図がある。

今まで自分史らしきものを断片的に書物に入れ込んできたが、私がその中にいる同時代の全体史との関連をきちんと書いてはこなかった。上り坂の20世紀後半から、下り坂の21世紀前半という時代ということになるだろうか。自分の属した組織、取り組んだ仕事は、時代と密接に関わっていることは間違いないのだから、そこを意識していこう。

今週発売の『週刊文春』では、社会学者の上野千鶴子(1948年生)は色川大吉との婚姻関係があったとのことだ。

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「名言との対話」2月23日。波多野鶴吉「宥座の器」

波多野 鶴吉(はたの つるきち、安政5年2月13日1858年3月27日)- 大正7年(1918年2月23日)は、明治・大正期の実業家

グンゼ創業者 波多野鶴吉の没後100年記念、社員らが演じる寸劇「波多野鶴吉物語」上演

京都府綾部市生まれ。波多野家の養子となる。京都に遊学。18歳で花と結婚。28歳、小さな資本をかき集めて何鹿群養蚕業組合の組合長になり大資本に対抗した。キリスト教に入信。38歳、郡是製糸株式会社を設立。43歳、社長。

『宥座の器』(あやべ市民新聞社)を読んだ。綾部は、歌人吉井勇が「綾部川の水のひびきの中にきく人の心の高きしらべを」と詠んだ土地である。。「鬼は内、福は内」とする大本教出口なお出口王仁三郎、そしてグンゼ創業者の波多野鶴吉などが高きしらべを持つ人なのだろう。グンゼの本社は今も綾部にある。

グンゼは、もともとは郡是であった。国には国是があるように、市町村にもそれぞれ郡是があるべきだ。郡には郡是が要る。そこから波多野鶴吉は社名を「郡是」にしたのだ。アパレルを中心とした100年企業のグンゼ(1896年創立)は、2022年年3月期決算では、売上1243億円(連結)、従業員は1662名(単体)、5692名(連結)となっている。

以下、波多野鶴吉の言葉。「皆是中糸国 今以上争鳴 経営幾歳月 終始啻一誠」「よい人がよい糸をつくる」「信用のある人が信用のある糸をつくる」「一、心が清ければ、光沢の多い糸が出来る。一、心が直ければ、繊度の揃うた糸がで出来る。一、心に平和があれば、ふしのない糸が出来る。一、心に油断がなければ、切断のない糸が出来る。一、自ら省みて恥ずるところがなければ、力の強い糸が出来る」「第一になくてはならなぬものは中心人物の信である」

鶴吉は、計数能力が高く、書がうまかったそして記憶力が抜群だったという観察がある鶴吉は60歳で亡くなったが、3歳年下の妻の花は96歳の長寿だった。鶴吉に「心を治してもらいたい」と訴えて成功させた糟糠の妻であり、事業と人生の伴奏者であった。

鶴吉については、山岡荘八が伝記を書いている。また、綾部には、グンゼ記念館、波多野鶴吉記念館がある。『宥座の器』には波多野花についても詳しく書いてある。

さて、今回読んだ『宥座の器』の宥座とはどういう意味だろうか。平生は傾いている不思議な器があり、わたしも見たことがある。水を注いで器の半分に達すると真っ直ぐになる。いっぱいにすればひっくり返る。中庸の大事さ、足るを知ること、求めすぎるてはいけない。この器を身近において自分を戒めようとする。宥座とは身の回りという意味だ。孔子は「宥座の器」を題材にして「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て」と説いたされている。自らの器を考えよということだろう。鶴吉もこの考えに賛同していて人にアドバイスしていた。

『宥座の器』の著者の四方洋は「この本でおわりとせず、さらに充実した鶴吉伝を目ざしたい」と「はじめに」で書いている。四方の父の生家は綾部の大本教の開祖、出口なおの家の隣だった。父は死の直前まで大本教の2代目・出口王三郎と鶴吉のことをよく語っていた。四方は大学の卒論は「郡是」を取り上げていた。「趣味は人間」「人観光」ツーリズムを提唱していた。ある人物の伝記を書くには相当なエネルギーが必要だが、この人には波多野鶴吉を書く理由が確かに存在していたのである。