「知研読書会」の8回目ーー7人が参加。

知研読書会の8回目。

7人の参加者のうち、3人が新しい人という珍しい会となった。書評家として有名な橋本大也さんも参加。女性は二人。


以下、紹介された。司会の都築さんのまとめ。

茨木のり子は、戦前から戦後にかけて愛知県西尾市に住んでいました。茨木のり子は都築にとって高校の先輩にあたります。都築と同世代の同窓生が立ち上げた「詩人茨木のり子の会」の10周年記念が行われたとFacebookに投稿がありました。それをきっかけに今回はこの本を取り上げました。この会で朗読された「私がいちばんきれいだったとき」と、「自分の感受性くらい」を紹介しました。

ヘルマン・ヘッセ『ヘッセ詩集』新潮文庫
10代の多感な時期にヘッセの詩「困難な時期にある友だちたちに」に出会い、特にその中の「日の輝きと暴風雨とは 同じ空の違った表情に過ぎない。」という一節に救われた、と語ってくれました。
◆秋岡秀夫『食事とうつわ』サンレイライフムック
食器の歴史の本です。特に、箸について紹介されました。箸を使うようになったのはそれほど古いことではなく、それまでは手を使って食べてきた。ヨーロッパ人も手で食べていたが、日本は木の椀があったので温かい食物に直接触れずに食事ができた。また、ちゃぶ台のような全員が食べ物を囲む他に、日本はめいめい膳に食事を並べるという伝統もある。今まで気が付かなかった日本の文化の特徴を見直すことができました。
井筒俊彦『意識と本質』岩波文庫

井筒俊彦は30もの言語に精通していました。その天才的な語学力を駆使して、世界の様々な哲学、思想を研究してきました。特に、イスラーム学、東洋思想、神秘主義哲学を専門としている人で、この本は理解するまでなかなか大変で、3回目にようやく少し理解できるようになったと紹介されました。

◆『判例タイムズ』2022年10月号

民事上のトラブルに話し合いで解決を図るという調停制度が始まって2022年でちょうど100周年にあたるそうで、式典には天皇、皇后両陛下も参列されたそうです。日本では江戸時代から話し合いによる解決が行われてきて、日本独自のものだそうです。

◆John Irving "Prayer for Owen Meany" (訳書)ョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』

人生で一番感動した小説、としてこの本が紹介されました。翌日仕事ができないくらい圧倒されたそうです。内容はネタバレになるので詳細は省略されましたが、通常の小説と違って注意深く読んでいくべき本だそうです。

永田耕衣『耕衣自伝ーわが俳句人生ー』沖積舎

城山三郎の『部長の大晩年』にも書かれた永田耕衣の自伝。1900年生まれで工業学校を出て三菱製紙に入社し、55歳で退社。そこから97歳まで俳人として大活躍した。会社勤めよりも退職してから俳人として生きた42年間の方が長い。これから人生100年時代を生きていく我々にとって「大晩年」をどう生きるかが課題となり、また大いに励ましとなる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月24日。直木三十五「芸術は短く、貧乏は長い」

木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年明治24年)2月12日 - 1934年昭和9年)2月24日)は、日本小説家である。脚本家映画監督でもあった。

2011年に大阪谷町の直木が通った小学校の跡地に建っている、直木三十五記念館を訪問した。この記念館は下町の一角にある小さな建物の二階にあった。気をつけていないと通り過ぎてしまう。この界隈で生まれたという縁を大事にして、有志が努力して街づくりの一環として小さな記念館をつくった。推進している人にも挨拶をした。

黒い部屋がモチーフとなった建物は、横浜市金沢区にあった自宅のイメージを模している。驚いたのは畳張りだっだことだ。執筆時はいつも寝そべっていたということから、同じ気持ちになってみて欲しいという配慮だそうだ。

菊池寛が制定し、この人の名前をとった直木賞は有名だが、本人がどの様な人かは知られていない。本名は植村宗一。ペンネームは植という字をバラして直木という苗字にして、その時の年齢が三十一歳だったので、直木三十一と命名。毎年三十二、三十三と増やすというふざけたアイデアだったが、最終的には三十五で止まった。

若いころから直木は色々な仕事に手を染めるがうまくいかない。1923年の関東大震災以後は、大阪のプラトン社で川口松太郎と仕事をしている。因みに、死後に設置された直木賞の第1回の受賞者は川口であったことは縁としか言いようがない。

映画監督のマキノ省三とも一時に一緒に映画をつくって迷惑をかけている結果的に直木が書いた原作の映画は50本近くある。
38歳で書いた『由比根元大殺記』でようやく大衆作家となり、39歳で書いた『南国太平記』で流行作家になる。43歳で亡くなるが残した本は多い。「私程度の作品を一日三十枚平均で書けないやうなら、作家になる資格はない」(産経新聞2004年10月15日)。短い期間ではあったが、怒濤の仕事量の人であった。

直木は1934年に亡くなるが、翌年には友人の菊池寛文藝春秋社の事業として、芥川賞とともに直木賞を制定している。今では直木賞文学賞では日本の最高峰になった感がある。作家の肩書に「直木賞作家」はあこがれのまとである。紹介されるとき、亡くなったとき、この肩書で語れることが多い。

直木賞の選考会は料亭・喜楽で、1階が芥川賞、2階が直木賞というかたちで行われる。直木賞は新人による大衆小説という趣旨だったが、現在では実力のある中堅作家にも与えられている。

芥川賞との違いはわかりにくくなっているが、司馬遼太郎は「自己意識の強い人が芥川賞、他者との関係に目を向けたものが直木賞向け」という名言を吐いている。この方が純文学と大衆文芸というよりもわかりやすい感じがする。

最年少の20代では、朝井リョウ平岩弓枝山田詠美、三浦しおんらがいる。最高齢の60代は、古川薫、青山文平がいる。デビュー作での受賞は中村正䡄、初小説では青島幸男がいる。筒井康隆などこの賞が欲しいが何度も落選している作家も多いのだが、山本周五郎は受賞を辞退し、伊坂幸太郎は候補になることも辞退している。

直木三十五は、命名秘話もそうだが、無頼で破天荒人物だったようで、エピソードが多い。直木賞の地位が上がっていることを知ったら、菊池寛が「おい、賞をやったんだから分け前をよこせ。なんて無茶を言いそうな気がする」と言ったという話もある。愛すべき人でもあったのだろう。

長く貧乏だったこともあり、名言も多い。「貧乏の無い人生はいゝ人生だが、貧乏をしたつて必ずしも、人間は不幸になるものではない」。そして「人生は短く、芸術は長い」をもじった「芸術は短く、貧乏は長い」という警句も味がある。38歳で認められてからわずか数年後の43歳での死去であったから納得させられる。しかしその短い間に、怒涛の仕事をしたのである。直木三十五という名前より、「直木賞」が有名になったというのは不思議だ。人徳であろうか。