ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の30回は、「二十四の瞳」が代表作の壺井栄です。
「桃栗3年 柿八年 柚子の大馬鹿18年」、これが遅咲きの壺井栄の座右の銘でした。自身は柚子であると認識していた。亡くなる直前の最後の言葉は「みんな仲良く」でした。
2015年に郷土の小豆島の映画村に壺井栄文学館を訪問したことがあります。
「突き飛ばされて転んだら、ついでにひとりで起きあがって、歩くとこを見せてやらにゃいかん」 「このひとみを、どうしてにごしてよいものか」
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「名言との対話」3月13日。原民喜「死は僕を生長させた 愛は僕を持続させた 孤独は僕を僕にした」
原 民喜(はら たみき、1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の詩人、小説家。
原民喜という人物については名前も知らなかった。ノンフィクション作家で優れた作品を書き続けている梯久美子『原民喜 死と愛と孤独』(岩波新書)を読んだ。
民喜という名前は、日露戦争に勝って民が喜ぶという意味でつけられた名前である。広島の原爆をテーマとした作品「夏の花」「死と夢」などの作品で知られる。
1951年、45歳で中央線吉祥寺と西荻窪間で鉄道自殺をする。葬儀委員長は佐藤春夫。広島城址に「詩碑」が建立される。設計は谷口吉郎、陶板製作は加藤唐九郎。何枚かの写真をみると、10代前半の学生服姿の写真では聡明で透明感のある目線があり、慶応予科時代は真実を見抜こうとする意志を感じる目をしている。
「死は僕を生長させた」。商人としての才覚とやわらかな感受性を持った庇護者・父の死、愛情を注いでくれた母の死、そして可愛がってくれ、原が14歳の時の姉の死。原には死は身近にあった。その死たちが原を生長させた。
原自身の死はどのように受け止められたか。4歳下の埴谷雄高「あなたは死によってのみ生きたていた類まれな作家でした」。大江健三郎「われわれを、狂気と絶望に対して闘うべく、全身をあげて励ますところの自殺者である」。原の小説『永遠のみどり』には「ヒロシマのデルタに 青葉 したたれ」という後代にあてたメッセージがある。
「愛は僕を持続させた」。永遠の女性となった同郷の6歳下の妻・貞恵。夫の才能を信じ、作家として立つという原の夢を自分の夢とした。「お書きなさい、それはそれはきっといいものが書けます」。貞恵は「出しゃばらず、弟を扱うように原君をやさしく扱っていた」(伊藤整)。貞恵の句「着ぶくれて庭はく人や枯芙蓉」「菜を洗ふ手もと暮れゆく秋の雨」もいい。結婚6年目に肺結核を発症し、結婚11年半で33歳で死去してしまう。愛が原が原であることを辛うじて保った。
「孤独は僕を僕にした」。原は1945年2月に広島に疎開する。原爆という惨劇に遭うために移ったようなものだった。「便所ニ居れ頭上ニサクレツスル音アリテ頭ヲ打ツ 次ノ瞬間真暗騒音」と記している。代表作「夏の花」は、GHQの検閲を避けるために「原子爆弾」からタイトルを変え、「三田文学」に載せた。心象風景を書いた他の作品とは違い、目と耳でとらえた事象の記録に徹する文体を用いた。広島が発する言葉に耳を澄ませたのだ。「日の暑さ死臭に満てる百日紅」「梯子にゐる屍もあり雲の峰」「水をのみ死にゆく少女蝉の声」。「これらは「死」ではない、このやうに慌しい無造作な死が「死」と云へるだろうか」。「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」(『鎮魂歌』より)。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」。それが原が生きる理由だった。「嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく」。孤独が原を原にした。
『原民喜 死と愛と孤独の肖像』の「あとがき」に、著者の梯久美子は「個人の発する弱く小さな声が、意外なほど遠くまで届くこと、そしてそれこそが文学のもつ力であることを、原の作品と人生を通して教わった気がしている」と書いている。文学の意味はそこにあったのか。
原民喜は、日露戦争の翌年に生まれ、太平洋戦争の広島で原爆の被害に遭っている。名前の由来といい、被爆といい、原民喜は、遭うべきものに遭うべきときに遭っている感じがする。その一生は、偶然と必然が織りなす「死と愛と孤独」にあった。そして短すぎる生涯であったにもかかわらず、この本の中で描かれた多くの文学者たちに鮮烈な記憶を与え、彼らの文学に確かな影響を与えている。
17歳年下で親しかった遠藤周作は原の遺書を読んで「貴方の死は何てきれいなんだ」と日記に記している。『沈黙』を書いたキリスト者・遠藤には「イエスの生涯」という作品がある。そこではイエスは徹底して無力な存在として描かれている。人々の悲しみや苦痛やみじめさを引き受け、そばに寄り添おうとした。原民喜はイエスであったのだ。