塙保己一の生涯自体が一大事業だったーー「盲人の最高位」の獲得。「和学講談所」の起業。『群書類従』670冊の刊行。

埼玉県本庄市塙保己一記念館を訪問。

近年建て替えた重厚な外観を持つ記念館だ。

1746年から1821年の76年間。青年期・壮年期は松平定信寛政の改革、晩年期は文化文政の時代で町人文化が栄えた。

誕生日は5月5日。7歳の時、失明。1760年、江戸に出て当道座という盲人の一座に入る。保己一は不器用で針灸、按摩などは上達しなかったが文章を覚えるという特技があった。師の雨富検校は、3年間は養うからやりたいことがあればやりなさいと励ました。

当時の盲人社会には位があり、初心、打掛、座頭・衆分、勾当、検校・別当、十老、総検校と細かく分けると73の段階があった。最終的には塙保己一は総検校まで昇りつめる。

「千日の間、一日に百巻の本を読む」ことを誓い、18歳で衆分になっている。賀茂真淵国学を学ぶ。般若心経百巻を千日間読誦するという願をかけ、1775年に師の後押しもあって勾当に昇進する。当時の盲人の出世には大金が必要だった。師や友人の太田南畝らが工面したようだ。このときい師の本姓の塙と改名している。さらに検校を目指し二千日を祈願した。

1779年、34歳「世のため、後のため」に一大叢書『群書類従』の編纂を決意する。般若心経百万遍の読誦の実行し成就を祈願した。この事業は各地の散財する貴重な書物を集め、版木を起こし出版するという一大事業であった。

38歳、検校に昇進。1793年に和学講談所をつくった。

1800年、「ここまで来たからには、総検校になってみたい」と言ったとおり、55歳で検校の最上位の総晴の検校に昇進している。

1819年、ついに『群書類従』670冊の刊行は終了する。1821年、最高位の総検校に任命される。この年76歳で死去する。戒名は「和学院殿心眼智光大居士」である。「成らぬのはせぬからだ」との考えのとおり、年少の頃、「おら、おっかあ、心の目が見える大人になる」との志を実現したのだ。まさに「心眼」で「和学」を修め、国学者として大成した。

「番町に過ぎたるもの二つあり、佐野の桜と塙検校」と川柳に詠まれた。塙検校とは保己一のことである。

「さてさて目が見える人は何と不自由なことか」。源氏物語の講義の時に、風によって灯火が消えた時の逸話。

私は2013年に渋谷の塙保己一史料館(社団法人温故学会)を訪問している。7歳で失明した塙保己一は、36歳から41年かけて『群書類従』670冊(25部門)を刊行した人だ。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館していた。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話があった。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。今回の訪問で塙保己一のことをベルに伝えたのは文部省の役人であった伊沢修二であったという記述を発見した。伊沢は植民地時代の台湾の日本語教育に功績のあった人であるが、障碍者教育にも熱心だった人だった。こういうつながりの発見も「人物記念館の旅」の愉しみの一つだ。

盲目の身で国学者として大成し、『群書類従』を完成させるという途方もない大事業をやってのけたことに感動する。

またこの人は、73段階あった盲人の位を一つ一つのぼっていき、たった一人の総検校という位人身を極めたことも特筆したい。世事にもたけ、人間としての交際もうまくこなしたのであろう。また師や上役にも可愛がられ、有力な友人も力を貸してくれ、門人も多く輩出している。

現世では組織の中で最高位にまで昇りつめ、後のために学校を起業し人材を養い、長く後世に残るライフワークを40年以上かけて完遂する。この人の生涯自体が稀にみる大事業であったのだ。しかもこの人は盲人であった。

 


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「名言との対話」3月20日速水御舟「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年明治27年)8月2日 - 1935年昭和10年)3月20日)は、大正昭和初期の日本画家である。本名は蒔田栄一。

東京浅草出身。1908年に優れた教育者でもあった画家・松本楓湖主宰の安雅堂が塾に入門。同門の兄弟子・今村紫紅と行動をともにする。禾湖浩然の号を経て、1914年に速水御舟を名乗る。御舟とは貴人の乗る舟の意味である。1917年、第4回院展に出品した『洛外六題』が激賞され、日本美術院同人に推挙された。

1925年、軽井沢に3か月籠って代表作『炎舞』を完成させる。

1930年、大倉喜七郎後援の「ローマ日本美術展覧会」参加のため横山大観らと渡欧し、『名樹散椿』を出品。イタリア、ドイツ政府から勲章を受章した。

速水御舟今村紫紅の新南画、装飾的な琳派、写実技法の西洋画と、常に新しい日本画を模索し続け、将来を期待された。

代表作の一つ『炎舞』は、深い黒の闇の中で真赤に燃える炎の周りを蛾たちが舞う姿を描いたもので、幻想的であるが、迫真の写実作品である。この作品は山種美術館に収蔵されている。山種美術館には速水御舟の絵が100点以上収蔵されているのだが、もともとは安宅産業の安宅英一が集めたコレクションの一部である。有名な安宅コレクションは、中国陶磁、韓国陶磁、速水御舟の3本柱でできていた。そのほとんどは大阪市立東洋陶磁美術館の核となっている。その一部を山種美術館が一括購入したのである。

渋谷区広尾のこの美術館はよく訪れるが、速水御舟川合玉堂奥村土牛のコレクションが中心である。

御舟は惜しいことに40歳の若さで亡くなっており、寡作でもあったために、生涯で600点ほどの作品しか残っていない。原三渓がスポンサーになり、そして武智鉄二が集めた御舟の作品が安宅コレクションに結実している。

婦人画報』2019年7月号では、御舟と市川雷蔵に関するコラボ企画が載っている。その記事の中で、「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という御舟の言葉をみつけた。ある分野の頂点を極めようとするには努力だけでなく凛凛たる勇気が必要だ。そこから見える景色をわがものにしたら、そこから降りて、再びさらに進化した分野の頂点に向かって勇気をふりしぼって登っていこうとする御舟の心意気を感じることができる名言である。

中国の南宗画由来の文人画とも呼ばれる南画、装飾性が豊かで大胆なデザイン性を持つ琳派、そして徹底した写実を重視する西洋画と何度も梯子を登り、登り返した速水御舟の画家としてのキャリアがみえる。この画家に長い時間があったなら、日本の近代絵画の世界も大きく変わったかもしれない。改めて山種美術館で御舟をしのびながら『炎舞』をみてみたい。