日経新聞に3月末発刊の共著の広告。

本日の日本経済新聞に共著の広告が載っている。10人の共著で、テーマは「決断」だ。3月末から書店に並ぶ。私はビジネスマンから大学教員への転身時の「決断」について書いた。。

以下、「はじめに」から。

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人生は選択と決断の連続です。

ふり返って見れば、私も大小さまざまの岐路に立ち、その都度、進路を選択し今日に至っています。その中で、最大の「決断」は、40代半ばの転職であったことは間違いありません。ビジネスマンから、大学教員への方向転換です。、、、、

 

中略

 

、、、、方向転換をするとなると、あらゆる状況をこの大プロジェクトにひきつけて、大きな構えでかつ慎重にマネジメントしていかねばなりません。退職までの3年間は、我が人生においてライフコンシャス(人生に対する意識)がもっとも高い期間でした。社内外の人に会うたびに、その人の人生を見つめながら、自分のこれからの人生を深く考えることになりました。そして、転職をするかしないかという生涯最大の決断に向かって進み、最後は目をつぶって千仞の谷を挑びました。

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夕刻、仙台に到着。横野さんと食事。画家の山浦さんと電話。

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「名言との対話」3月25日。辰野金吾「俺は頭がよくない。だから人が一ーする時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家、工学博士。

佐賀県唐津生まれ。工学寮(現・東大工学部)の試験で官費入寮生に漏れ、二度目で受かった。31人中の最下位だった。辰野は後に造家学を首席で卒業することでわかるよに刻苦勉励の人であった。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太長野宇平治、矢橋賢吉、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞、岡田時太郎らの人材を輩出した。帝国大学総長渡辺洪基 の意向を受け、工手学校(現・工学院大学) の創立(1887年)を推進し、運営にも尽力した。大隈重信の要請を受け、早稲田大学建築学科創設(1912年)にあたり創設顧問に就任し尽力した。

東大仏文科で小林秀雄三好達治らを育てたフランス文学者の辰野隆は息子である。金吾は相撲好きで長男の隆を相撲部屋に入門させたこともある。その縁だろうか後に旧両国国技館を設計したのも辰野だった。晩年に隆から、本人がつくった多くの建築物の中で気に入った建物を聞かれて、「一つもない。俺は一生懸命やったがダメだったなあ」と語ったという。辰野金吾の志がいかに高かったかがわかる言葉だ。ちなみに長女・須磨子はビタミンの発見者・鈴木梅太郎夫人である。

辰野金吾の代表作として挙がるのが、1914年に竣工した中央停車場、現在の東京駅である。関東大震災でもびくともしなかったほど堅牢で、震災当時は堂々と建つその姿に、多くの人が励まされた。辰野の建築は設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれたこともこのエピソードで納得できた。

日本銀行本店、京都支店、小樽支店、大阪支店を始め、第一銀行、森岡銀行、朝鮮銀行、百三十八銀行、山口銀行、加島銀行など金融機関の建物っも多い。いずれもルネサンス系に辰野独特の手法を加えた作品が多く、「辰野式」と呼ばれている。赤レンガに白色のストライプが入り、賑やかなスカイラインが特徴だ。

現在でも台湾総統府として使用されている旧台湾総督府庁舎は辰野が監修した作品の一つである。私も台湾でその威容をみたことがある。
18世紀から19世紀かけて美術家や建築家をはじめ多くの人たちがヨーロッパ各地を数か月から数年をかけて訪ね見聞を広める旅をした。グランド・ツアーである。辰野も2年間のイギリス滞在を終えて、1年間のフランス・イタリアへのグランド・ツアーを試みている。旅をすることによって教養を積むという考え方はこのグランド・ツアーに由来している。

辰野の師匠は、鹿鳴館など名建築を残した工部大学校のコンドルとイギリスへの官費留学中に師事したバージェスだった。コンドルの後任として工部大学校教授となった辰野は日本の建築学に次の3つのオリジナルな視点を持ち込んでいる。美術建築の概念、日本建築学の研究、耐震建築学の創始である。つまり近代日本の建築学は辰野がつくったといえる。

現在の日本建築学会を立ち上げ会長となった。この学会は大学関係者だけでなく、技術者や施行業者も加えており、設計者、技術者、施行者の三位一体の建築界が生まれている。また建築は民間の事務所で勝負すべきであるという信念で東京と大阪に建築事務所を構えて200棟を超える膨大な辰野式建築で、美術と建築の一体となった世界をを生んでいった。1919年に国会議事堂の設計競技で審査員を務めるが、その年に大流行したスペインかぜに罹患し死去している。出身の佐賀県には旧唐津銀行本店 「辰野金吾記念館」がある。

辰野は努力と戦いと挫折の連続の中で、階段を一つづつ登っていった人生だった。最初は平凡だが、じわじわと追い越していく。気がつくと、いつの間にかトップになっているというタイプだった。「俺は頭がよくない。だから人が一ーする時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」と語っている。この自覚とそれを克服する努力が辰夫金吾という人格を形づくった。最近言われなくなった「克己心」という言葉を久しぶりに思い出した。近年、改装なった東京駅を見るたびに、辰野金吾に想いを馳せている。