野田一夫ファンクラブ主催の追悼会を仙台で開催。

仙台のウェスティンホテル26階のシンフォニーで、「野田一夫先生を偲ぶ会」を開催しました。主催は野田一夫ファンクラブです。この会は2010年以来25回目。私はこの会の「黒幕」という肩書きを持っています。

昨年9月3日に亡くなった野田先生を話題にしながら、宮城大学時代に親しくなった懐かしい人たちとの交流を楽しみました。生前の野田先生の様々なエピソードが語られ、笑いの多い2時間となりました。野田先生を偲ぶというより、野田先生に励まされる会となりました。

人数を絞ったのですが、河北新報の取材もあり、記事が出たら反響があることでしょう。

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私のスピーチの骨子。

黒幕。野田先生の特色は影響力。人物記念館の旅1000館。偉さは影響力。深さ、広さ、長さ。ラポールというハガキ通信。1000人。毎週。75歳から90歳までの日々が書かれている。人・旅・本。高齢社会の生き方のモデル。本として出版準備中。ウェブのお墓。紙のお墓。死後も影響力を発揮する人が一番偉い。いつまでも。

 


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終了後、富田さん、横野さん、篠塚さん、河西さん、粟野さん、丹羽さんらと、事務局の打ち上げを国際ホテルで行いました。

 

翌日の河北新報の記事。

 

「名言との対話」7月7日。栗林忠道「予は常に諸子の先頭にあり」

 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年〉7月7日1945年昭和20年〉3月26日)は、日本陸軍軍人最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章)。第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。

1942年のミッドウェー海戦の大敗北から3年後の1945年2月、硫黄島を守備する2万千人の日本軍は、6万千名の米軍上陸兵力の総攻撃を受ける。5日間で終わらせるつもりだった米軍は36日間という予想外の時間をかけることになった。この間、日本軍は約2万人の損害を出したが、米軍は約2万9千人の損害(戦死者5500人)を蒙った。

これに引き続く戦いとなった沖縄では米軍は4万9千人の大損害を出す。この二つの猛烈な日本軍の戦いが、100万を超える米軍犠牲者の予測を生み本土上陸作戦を思いとどまらせた。

栗林は「我等は各自敵十人を倒さざれば死すとも死せず」「我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん」という「敢闘の誓」を部下に叩き込んでいる。陸軍と海軍の連携の悪さ、旅団長や参謀の立てた作戦の大幅な修正に遭いながら、「我々の子供らが日本で、一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです」と、自らの信じる作戦の目的とそれを実現するための作戦とその実行に立ち向かう。

栗林の訣別電報は大本営によって改ざんされた。武器弾薬にも事欠く状況をあらわした「徒手空拳」という言葉は削除された。「国のため重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」は、末尾を「散るぞ口惜し」に変えられたという。

大本営は国民をあざむくばかりか、われわれもあざむくつもりか!」と憤慨しながら、「予は常に諸子の先頭にあり」という言葉を何度も口にし最後まで兵の士気を維持し続ける。2007年に観た映画「硫黄島からの手紙」では、この言葉を何度も全兵士に告げる放送し、告げる姿に感銘を受けた。現場は鼓舞されたであろう。この言葉はリーダーの心得を示している。