女優の奈良岡朋子が亡くなったーー最晩年のライフワークと最後のメッセージ。

女優の奈良岡朋子が2023年3月23日に亡くなったというニュースが本日流れました。享年93。以下、追悼。

1929年12月1日、東京・本郷生まれ。女子美大卒。1948年、大学在学中に民衆芸術劇場の研究生となり1950年劇団「民藝」の設立に参加、後に代表をつとめた。

舞台をはじめ、映画やテレビにも多数出演し、ジャンヌ・モローキャサリン・ヘップバーンの洋画の吹替えをするなど声優としても活躍している。

主な出演舞台としては、『ガラスの動物園』ローラ役、『イルクーツク物語』のワーリャ役、『ドライビングミスデイジー』のデイジー役などがある。NHKでは、大河ドラマ春の坂道』、『55歳からのハローライク』他。『おしん』他のナレーションも担当している。1992年に紫綬褒章、2000年に勲四等旭日小綬章を受章。

交友も多く、杉村春子からは妹のように可愛がられ、美空ひばりとは「和枝」という本名で呼んでいた大の親友同士。石原裕次郎が「最も尊敬する女優」として奈良岡朋子の名前を挙げていた。黒柳徹子とは同期デビューで親しく、「徹子の部屋」に定期的に出演している。

奈良岡朋子が2013年より上演している「黒い雨-八月六日広島にて、矢須子-」は、「ささやかなライフワークとして始めた」と言う一人語りの舞台である。井伏鱒二『黒い雨』新潮文庫刊)をもとにした作品。毎夏のように全国で上演を重ねてきて、2019年には東京新宿、大阪、広島。2020年は下関、福岡、佐賀で公演を行っている。

黒い雨とは原爆炸裂時に巻き上げられた泥やほこり、すす、放射性物質を含んだ重油のような大粒の黒い雨を指す。「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断やがんなどの特定疾患発病時被爆者健康手帳の交付を行ってきたが、その範囲をめぐっていまなお係争が続いているから、ニュースでみることがある。その動向にも影響を与えていると思われる。

自身は「ささやか」というが、その影響は小さくない。多くの作品をこなしてきた奈良岡朋子が「熟年期」の84歳でたどり着いたライフワークだ。昨年末に93歳の誕生日を迎えている。命の続く限り、続けたのである。こういう仕事をライフワークというのであろう。

 

以下、生前に残しておいたメッセージがニュースで紹介されています。

新たな旅が始まりました。旅好きの私のことです、未知の世界への旅立ちは何やら心が弾みます。

 向こうへ着いたらすぐに宇野さんを訪ねます。もう一度あの厳しい演出を受けたいと長い間願ってきました。でもね、宇野さん、私はあなたよりずっと長く生きて経験を積んできましたからね、昔のデコじゃないですよ。「デコ、お前ちっとましになったな」と言われたくてこれまで頑張ってきたんですから。腕が鳴ります。杉村先生とももう一度同じ舞台を踏みたかった。どんな役でもいいからご一緒したい。ワクワクします。

 両親に挨拶するのは二、三本舞台をやって少し落ち着いてからにします。それからは裕ちゃんや和枝さんと思いっきり遊びます。

 これが別れではないですよ。いつかはまたお会いできますからね。

 それでは一足お先に失礼します。皆さまはどうぞごゆっくり…

奈良岡朋子

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「名言との対話」3月30日。福原有信「随所作主」(随所に主となる)

福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日1848年5月10日〉 - 大正13年〈1924年3月30日)は、日本実業家。第3代日本薬剤師会会長、資生堂創業者。 享年77。

千葉県館山市出身。17歳で江戸に出て医学を修める。1891年、海軍病院薬局長。1872年に官を辞し、」間初の洋風調剤薬局資生堂を開業。1885年、大日本製薬を設立し専務。1891年、帝国生命保険を創立し1896年に社長。1898年以降は資生堂で化粧品の製造販売を始める。

全国薬剤師連合会会長、日本薬剤師会長などをつとめる。一方で電力、鉄道、ホテル、汽船など多くの会社の重役をつとめている。

2013年にたまたま神保町の喫茶で紹介された伝記作家・山崎光夫さんの「開花の人--福原有信の資生堂物語」(東洋経済新報社)を読んだ。

一人の人物の一生を紐解くと近代が読み解けることがしばしばある。その一人が資生堂の創業者・福原有信だ。
福原は西洋医学所(のちの東大医学部)で医学と薬学を学び、薬学に方向を切り、洋風調剤薬局資生堂薬局)、製薬会社(大日本製薬会社)、生命保険会社(帝国生命保険会社)、薬科大学(東京薬科大学)、薬剤師会などの新規事業を成功させている。

この伝記の中では幕末から明治にかけての医学と薬学に関わる人が連なって出てくる。松本良順、佐藤尚中、石黒忠直、田代基徳、長与専斎、、。

医学と薬学は車の両輪であり、「医薬分業」が必要という考え方が基礎にある。今日の医薬分業は、資生堂薬局で福原が初めて実施したのだ。

「資生堂」の意味するものが説明されている。
 至哉坤元(いたれるかなこんげん)
 万物資生(ばんぶつとりてしょうず)
 乃順承天(すなわちしたがいててんをうく)

 大地はすばらしい。生あるすべてのものはここに生まれる。
 万物は天に則り、坤の徳により命を受け継ぎ栄える。(「易経」の「乾坤」の「坤」)

すべてのものはすばらしい大地から生まれる、が「資生」の意味で、「堂」は、大勢の人が集まる建物だ。それが資生堂である。

「随所作主」(随所に主となる)を信条とした福原は、新商品の化粧品の分野に50歳で挑戦を開始する。これが現在の資生堂につながっていくのである。
福原有信は、医学、薬学、化粧品というように自分の進むべき道を選びとり、それぞれの分野を大きく育つ基礎を築いた人である。まさに「随所に主となる」を実践した人だ。特に日本近代における化粧品の発展に貢献した人であった。

この本の中に、「医学校で国が指導する薬学には、学がありますが、術が欠けています」という言葉があった。民間、あるいは会社という組織は、この「術」を行うところなのだ。