北鎌倉から鎌倉へーー夫婦と娘、息子と過ごす。

鎌倉で、妻、娘、息子と過ごしました。

昼食は北鎌倉の「紫」(ゆかり)で国産牛肉のビロード煮、鎌倉・三浦野菜。その後、「明月院」を散策。

後姿探検隊。

北鎌倉から、切り通しを通って、鎌倉へ抜ける。途中に江戸築城前の太田道灌の邸址をみかけた。

ーーーーーーー

夜はユーチューブ「遅咲き偉人伝」の録画。

坂村真民(詩人):高校教師を60歳で退職。95歳まで詩作に専念。個人詩誌『詩国』を95歳の500号まで続けた。「凡人は長生きするしかない」など励まされる詩がいい。

東山魁夷(画家):40歳までが模索期。60歳まで風景画家として活躍。63歳から唐招提寺の御影堂の障壁画制作という大業に挑み72歳で完成。80代は心の旅。90歳で没。文章も一流。「時が過ぎ去っていくのでは無く、私達が過ぎ去っていくのである」。

ーーーーーーー

「名言との対話」4月2日。上杉鷹山「為せばなる為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん、寛延4年7月20日1751年9月9日) - 文政5年3月11日1822年4月2日))は、江戸時代中期の大名出羽国米沢藩9代藩主。享年70。

九州日向高鍋藩主の次男として江戸で誕生。米沢藩主上杉家の養嗣に迎えられた。後に第10代藩主となる。大倹約令をはじめ改革を打ち出す。譜代の家老たちの抵抗もあったが切り抜ける。細井平洲を招き、藩校興譲館を創設。天明年間には35歳で家督を養父の子に譲る。天明年間には凶作などで財政が窮乏するが、殖産興業をはかるなど実績をあげる。こういった改革は晩年にいたり成功をおさめたことから名君とうたわれた。学問の師とした細井平洲の弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎もいる。

2011年に知多半島の細井平洲記念館を訪問したことがある。このとき、19歳で米沢藩の藩主となる鷹山に与えた言葉があった。「勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや」である。この平洲記念館の名誉館長は、私もファンの作家の童門冬二だったので驚いた。ビデオで童門は「平洲は鷹山にあなたは山の上の一本松だ。風当たりが強い。しかしあなたは幹である。幹がひっくり返ると枝もだめになると「勇」を説いた」と言っていた。

以下平洲の言葉を記すが、こういった精神で鷹山は改革を行ったのだろうと納得する。「学思行相まって良となす」(学問と思索と実行が三つそろって初めて学問になる)。「先施の心」(まず自分の方から働きかけよ)。「学問はちょうちんだ」。「民を泣かせるなた、まず自分が泣け」。「難しいことをやさしく。それも武士だけでなく一般庶民にも伝えよ」、、、。平洲の感化力は弟子を通じて時代と社会を変える力があった。

鷹山は新規事業の振興、技術開発、人事組織改革、教育改革などを断行し、経済的に破たんをきたしていた米沢藩を蘇えらせた名君である。内村鑑三の『代表的日本人』でも中江藤樹などと並んで紹介されている。ケネディ大統領が鷹山を尊敬していたのは、この本を読んで鷹山を知ったからだ。また西郷隆盛が尊敬した人物としても知られている。

名家・上杉家の体面の維持などで窮乏する藩財政をみて「受けつぎて国のつかさの身となれば忘れまじきは民の父母」と、藩主こそが領民の父母との自覚で大倹約令をだした。自ら木綿を着用、一汁一菜、藩主の諸費用1500両を209両に削減、奥女中50余人を9人に減じた。酒は飲まず、粗衣粗食でとおした。老臣の江戸老中への強訴(七家騒動)には重罪に処して政策を実行していった。大改革であった。根本方針は自助・共助・扶助の3助であった。米沢藩中興の祖・上杉鷹山は今日の行政改革にもたびたび登場する。老中松平定信から高く評価され、百諸侯第一の賢君」と讃えられた。

2004年に米沢市のすこやかセンターで山形県男女共同参画室主催の講演会で講演をしたことがある。50人くらいの市民。「ライフプランづくりをとおして自分の生き方を考えよう」というテーマ。ほとんどは女性だった。子どもをセンター内の託児所の預けて講演を聞くお母さんや、子どもを抱えて聞くお母さんの姿もあった。熱心に聴いていただいた。この時、上杉鷹山のことを学んだ。

最近でもケネディ大統領の長女・キャロラインはアメリカの駐日大使となった人だが、2014年には「一人でも世の中を変えることができる」と大統領が語っていたという逸話を紹介している。

武田信玄が「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」という、よく似た歌を詠んでおり、上杉鷹山の「為せばなる為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」言葉はこれを変えていったものといわれる。

上杉鷹山の「してみせて言って聞かせてさせてみる」を、後の山本五十六元帥は「やってみせ、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かず」と変えている。

古今、そして東西にわたって多くの人に影響を与えている。やればできる、やらないからできないのだ。それは単純明快なメッセージだ。