期せずして「野田一夫デー」となりましたーーー「事業構想」「野田一夫語録」

期せずして「野田一夫デー」となりました。

午前:「事業構想」について。田原さんの紹介で、松行教授(事業構想大学院大学)に野田一夫先生による宮城大学での事業構想学部の始まりと、多摩大学での事業構想学科への名称変更のいきさつを中心に説明。事業構想大学院についても聞く。田原さんの「暗中模索理論」に合致していることも収穫でした。

 

午後:赤坂見附の「集」で、野田一夫先生の秘書役を50年以上つとめた藤村さんと会う。「野田一夫語録」の企画について説明し、相談。1時間あまり、野田先生を肴内に歓談。

 

夜:知研読書会の10回目。

私は山田風太郎『人間臨終図鑑』全3巻と関川夏央『人間晩年図鑑』全5巻を紹介。

 

読書会終了後に、「深呼吸対寄席」に遅れて入り、本日の「野田一夫デー」の報告。

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「名言との対話」。4月14日。高杉晋作男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない」

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。享年27。

幕末長州藩尊王攘夷志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩倒幕運動に方向付けた人物。

2007年に下関市の吉田にある清水山の東行庵はを訪ねた。高杉晋作の愛人「うの」が谷梅処として出家した庵である。

高杉は遺骸を奇兵隊の本拠に近い清水山に埋めて欲しいといったが、山県狂介(有朋)はこの地にあった草庵・無隣庵を梅処(愛妾おうの)に贈った。現在の庵は、伊藤博文山県有朋井上馨らの寄付で建立されたものだ。梅処は長生きして明治42までこの庵で住んだ。

東行庵の近くに建つ記念館には高杉の影響を受けた伊藤博文撰文の最初の言葉が階段の壁に高杉の写真とともに大きな垂れ幕として飾ってある。「動 如 雷電  発 如 風雨」
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目蓋然として敢えて正視するもの莫(な)し。これ、我が東行高杉君に非ずや。」、この言葉は風雲児高杉晋作の性格や行動を表した言葉である。

高杉は、江戸4回、京阪2回、長崎2回、上海1回と旅を重ねて思想を形成していった。その旅では、信州で佐久間象山、福井では横井小楠に会って刺激を受けた。佐久間からは「外国を自分の目で見なければならない」と教えられ、「翼あらば千里の外も飛びめぐり よろずの国を見んとしぞおもう」と言い、その後上海に行く機会を得ている。

高杉は上海時代の「遊清五録」(航海日録・上海ふん留日録・崎陽雑録・外情探索録・内情探索録)など日記を書き綴っている。晋作は上海で拳銃を二挺買っている。そのうち一挺を下関を訪問した坂本龍馬に贈った。あの龍馬が持っていた拳銃は、高杉の贈り物」だったのだ。

「西へ行く人を慕いて東行く 我心をば神や知るらん」と1863年に詠み、それ以来、東行という号を使うようになった。西へ行く人とは西行法師のことで、東行くは倒幕を意味している。高杉は戦争の犠牲者のために招魂場を創設するが、これ以後全国に招魂場ができ、東京にできた招魂場が、現在の靖国神社である。

吉田松陰松下村塾の双璧とうたわれた高杉晋作久坂玄瑞。高杉は「鼻輪を通さない放れ牛(束縛されない人)」といわれ、久坂は堂々たる政治家であるといわれた。師の吉田松陰hは、晋作は俊邁の才を持つが、頑質にわざわいされて、その優れた有識の天分がおおいかくされているとみた松蔭は、久坂玄瑞に対する競争心へと転化させた。

高杉は自分の墓に次のように書いて欲しいと手紙に書いてあったが、発見が遅れかなわなかった。自分の一生をこのように総括したのだろう。


 故奇兵隊開闢総督高杉晋作
 西海一狂生東行墓
 遊撃将軍谷梅之助也

 毛利家恩古臣高杉某嫡子也


「人は人 吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ 世の浮沈」、そして「人の花なら赤ふもなろが わしの花ゆえ くろふする」という粋な都都逸(どどいつ)もある。

大革命というものは、最初に思想家(吉田松陰)があらわれ非業の死を遂げ、戦略家(高杉晋作)の時代に入り、そして技術者(村田蔵六)の時代になり完成する。予言者、実行家、そして権力者(山県有朋)が順番にあらわれると同時に革命の腐敗が始まる。これは日本史を書き換えた司馬遼太郎の史観である。高杉晋作の位置がわかる。

幕末の風雲児高杉晋作は、「大閣も天保弘化に生まれなば 何も得せずに死ぬべかりけり」と言い、時代の転換期に躊躇なく決断し、果断に実行していった。そして野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたように「面白きこともなき世を面白く」と考えており、どのような場面でも取るべき行動は明確だった。「弔むらわる人に入るべき身なりしに 弔むらう人となるぞ はづかし」とも言ったが、奇兵隊総督として江戸から明治も大転換の先駆けとなった。27歳という若さで没したが、明治維新という近代国家建設の過程で、不朽の名を残した。