「幸福塾」は「コレクター」の2回目。

「幸福塾」は「コレクター」の2回目。

企画展を訪問した人。ほとんどは本業のほかにライフワークとしてコレクションをつくった人たちだ。

  • 駄菓子の粘土コレクションの石橋幸作。
  • 世界の蝶々コレクションのカメイ美術館の亀井文蔵。
  • 貝類コレクションが町立遠藤貝類博物館に結実した遠藤晴雄。
  • 古銭収集から日銀金融研究所貨幣博物館にまでなった田中啓文
  • 金沢八景」に魅せられて収集した楠山永雄コレクションとなった楠山永雄。
  • 収集した民芸7000点が国際基督教大学博物館「湯浅八郎記念館」になった湯浅八郎。

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もおつかれさまです。本日幸福塾、生憎と社業の為遅れての参加となりました。冒頭は野田一夫先生がご生前長く配信された「ラポール」というはがき通信を一冊の本として出版する計画について久恒先生からお話頂きました。配信は75歳から90歳までの15年間継続、振り返ると日本のGDP世界シェアは14.6%(2000年)から4.2%(2022年)へ下落し、東日本大震災(2011年)、COVID-19パンデミック(2020年)など災害と隣り合わせ、と「不安な事」だらけだったこの時期、人々を勇気付ける情報発信を孤軍継続されたタフネスさにはただ尊敬するのみ。実際にどのような言葉で読者へ語り掛けていたのか、ぜひ手に取ってみたいと思い、出版が楽しみです。さて本題は前回に引き続き「コレクション」。長くひとつの事にこだわり続け膨大なコレクションを完成させた偉人達について引き続き久恒先生よりご紹介頂きました。石橋幸作(1900-1976 駄菓子職人)仙台の老舗菓子店「石橋屋」の二代目、自身も菓子職人ながら、50年にわたって諸国の駄菓子を調べ、その記録を絵と文字で残し、紙粘土を使って意匠を立体的に再現した。その数優に1000点以上。昔ながらの菓子が戦後より徐々に数が減少する中で、その姿を後世に残すべく全国行脚、フィールドワークと継続。遠藤晴雄(貝類研究家 1915-2006)中学生の頃から貝類に興味を持ち、地元相模湾で収集を継続。理科教諭を定年退職後本格的な蒐集を開始し、4500種・5万点のコレクションで私設博物館を設立、没後町立に。「自分の住んでいるところには様々な良いモノが潜在している」地元を愛し、地元から愛された達人。田中啓文(たなかけいぶん 古銭収集家 1884-1956)寛永通宝を見て古銭収集が病みつきになる、戦火を逃れる為、日銀に寄贈する。古貨幣のみならず貨幣史経済史研究に貴重な資料併せて10万点。私設コレクションが一国の中央銀行が運営する博物館になる、夢物語。楠山永雄(サラリーマン・コレクタ 1931-2013)乳製品メーカー勤務(消費者サービス部長、物流部長)転勤で訪れる土地土地を研究、ぶらり旅。後に金沢八景に住み地元にちなむあらゆる物を蒐集。社業に邁進しながら余暇でフィールドワーク、地域に根差し地元の人びととの交流も盛んだったと推察、自らの成長に助け、人間力UP。湯浅八郎(京大教授、同志社大総長、ICU学長 1890-1981)中卒後、単身渡米(驚くべき行動力の傑物)の後、民芸(手仕事)の収集にいそしむ、地元京都の市場で発掘、酒・たばこをやらない、個人の小遣いで賄った。7000点の壮大なスケール、没後大学へ寄贈、博物館に。幼い時に触れられなかったふるさとの郷愁が後押しした?ラストは梅棹忠夫民族学者 1920-2010)民族学→世界のガラクタを集め、コレクションを万博で披露、後に国立民族博物館が出来た(狙い通りの展開?)。本日の紹介を通じ感じたことは、細かな「違い」にこだわって探求し続ける、継続、積み重ねで膨大なボリウムのコレクションを形成、継続の源泉は好奇心。そこから世界観が見えてくる。いっぽう人とのつながりで身に付く「人間力」。これらが本業でもきっと役にたつ。だからこそ、社業で経済的な安定を保ちつつコレクションにいそしむ、余暇にやる事が継続の秘訣か(本業でやるといつか倒れる?→道楽者)?欲望の赴くまま突っ走る事無く、公人ー私人ー個人をバランスさせる感覚が、もう一つ忘れてはならない継続の秘訣と実感できたのが本日の学びとなりました。次回もコレクター特集とのこと、楽しみです。次回も宜しくお願いい致します。有難うございました。
  • 本日もありがとうございました。本日は「コレクター」。それも仕事をしながら空いた時間にコレクション活動をして、結果として公の博物館などで公開されたという方々です。石橋幸作氏は「消えもの」としての駄菓子、亀井文蔵氏は世界の蝶、遠藤晴雄氏は4500種5万点以上の貝、田中啓文氏は貨幣、楠山永雄氏は地元としての「金沢」、湯浅八郎氏は民芸品、梅棹忠夫氏は「世界のがらくた」。そしてこの中には入っていないが牧野富太郎は植物標本と植物画(自分で描いたものだが)のコレクター。どの方にも共通して言えることは、限りない好奇心と、情熱と、根気強さと、子供のような何かにのめりこむ心。そして多くの人は酒やタバコやその他の娯楽はやらない。コレクションそのものが限りない楽しみであるから。
     考えてみると、この方々のレベルには全く及びませんが私の周りにもコレクターはいます。私の出身地愛知県西尾市に住んでいる高校の先輩の画家は西尾市や西三河の伝統行事などのコレクターでこれを独特の画風で版画にしています。友人の中学校の理科の先生は定年退職後にそれまでに集めたクワガタムシの標本を自宅に展示しミニ博物館にしました。コレクションを通じてその人独自の見方で世界が見えてきて、楠山永雄さんの写真のように満面の笑顔でいられるのでしょうね。私もこれから何か、のめり込めるような対象に出会えればいいな、と思います。次回も楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、今回も幸福塾ありがとうございました。コレクター列伝の二回目でコレクションを行う人物から幸福について学びました。駄菓子の石橋幸作さん、カメイ美術館の蝶の収集の亀井文蔵さん、こけしの収集の亀井昭伍さん、貝類博物館の遠藤晴雄さん、貨幣博物館のい田中啓文さん、金沢に関する収集の楠山永夫さん、民芸収集の湯浅八郎さん、民俗博物館の梅棹忠夫先生が紹介されました。 特に印象に残ったことは、駄菓子の石橋幸作さんです。幼少の頃は飴家の二代目として育ち、駄菓子模型を1000点所有し、駄菓子研究の第一人者で駄菓子一筋で終生の仕事として駄菓子が生きがいだったそうです。私は、小学生のころ切手を集めて途中で興味がなくなりやめたこともあって、収集活動を継続し、一つのことを成し遂げた話を聞いて感服しました。        
    また駄菓子は、子どもから高齢者まで誰もが親しみを持っているので収集した駄菓子をみて誰もが癒されるコレクションなので、駄菓子収集の話を聞いて、興味深く感じました。これまでのコレクター列伝のいろいろな人物のお話を聞いてみて本人しか価値がわからないものであっても収集することで楽しみを持つことができ、幸福感を得ることがわかりました。私も何か興味のあるものがあれば収集活動してみたいと思いました。次回幸福塾も楽しみにしています。
  • 本日もありがとうございました。本業を持ちながら、コレクターとなられた方々を紹介いただきました。仕事の余暇に収集を始め、個人のコレクションとなり、それが最終的に博物館にまでなる、という流れの方々のお話でした。ものを集めることに幸せを感じている方々ばかりで、楠山永雄さんの写真は、とても朗らかで、幸せがあふれでているようなお顔でした。ものを集めることに夢中になり、それが自分の気分を上げることにつながっていて、幸福度をアップさせることになっている。そういった、夢中にさせてもらえるものに出合えることは素晴らしいことだなと思いました。出合うにも、まず集めてみる、つまり行動してみることが肝心だということも学びました。コレクターは奥が深いですね。次回も楽しみです。
  • 久恒先生、参加されたみなさま、どうもありがとうございました。
    今回のテーマは「コレクター(2回目)」で、8人の方が紹介されました。石橋幸作氏は紙粘土の駄菓子模型、亀井文蔵氏は蝶、亀井昭伍氏はこけし遠藤晴雄氏は貝、田中啓文氏は貨幣、楠山永雄氏は金沢に関する物、湯浅八郎氏は民芸品、梅棹忠夫氏は民俗品を収集されました。それぞれ膨大な量のコレクションで、子どもの頃に興味を持って始めたり、仕事の関係で残すべきだと考えて始めたりと、出発点は違えど、亡くなるまで数十年間継続していました。なぜそんなに長く収集できたのか。共通点として浮かんだのは、「興味を持つ⇒集める⇒やっていくうちに好きになる⇒違いに気付いてこだわる⇒好奇心が増す」という流れ。私も十数年間収集したものがいくつかありましたが、現在も継続しているものとか、きちんとすべて保管しているものとかはありません。8人の方の好奇心を持続させるエネルギーに驚くとともに、私も何か復活させようかなと思いました。 次回のテーマもコレクターとのこと。どんな物を収集したのか、またそのきっかけについて、とても興味がわいてきました。引き続きよろしくお願いいたします。

 

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「名言との対話」4月19日。茂木七郎右衛門「時運に竿さすものは栄え逆ふものは亡ぶ」

六代 茂木 七郎右衛門(ろくだい もぎ しちろうえもん、旧名・兵三郎1860年3月16日万延元年2月24日 - 1929年昭和4年)4月19日)は、日本の醤油醸造家実業家資産家、千葉県多額納税者。野田醤油(現・キッコーマン)初代社長。

江戸川と利根川にはさまれて水運の便に恵まれた千葉県野田市は、江戸へ向けての醤油生産の基地となった。1661年には高梨兵左衛門、1662年には茂木7左衛門が味噌製造を始める。1764年には茂木家は醬油製造も手掛ける。文化文政時代には関西の下り醤油を野田・銚子の関東醤油が圧倒する。江戸まで10日から半月かかる銚子醤油に対し江戸川の開削で8時間で運べる野田署油が優位に立った。

1917年には茂木・高梨一族が中心となって野田醤油が設立された。ライバル同士8家が結集しのだが、1家から1世代で1人だけが入社できるという仕組みにしている。これが現在のキッコーマン株式会社である。その初代社長が6代目茂木七郎右衛門である。

その後、この会社は、養子の茂木啓三郎(1899-1993年)によって集合体であった体制を近代化する。1962年から1974年まで社長をつとめた啓三郎は、アメリカ合衆国に工場を建設するなど醤油事業を海外で成功させ、業容を拡大し、個人醸造家の集合体であった企業を近代化し業界のトップにした。「健全な思想と厳しい倫理観をもち、その厳しさに耐えながら、なおかつ健全に運営することこそが経営者の使命である」と語っている中興の祖である。

その次男である茂木友三郎(1935年生まれ。10代目)は、「企業の重要な役割に一つは、人々の持つ欲求を有効需要に変えることである」というドラッカーに心酔する。そしてアメリカのビジネススクールで学び、キッコーマンをグローバルブランドに育て上げた。

キッコーマンは頭打ちの醤油から、「つゆ」と「たれ」の開発に成功し、1世帯当たりの支出で「つゆ・たれ」が「しょうゆ」を上回る時代にを演出し、売り上げ5000億を超える、事業利益500億円を超えるビッグビジネスになっていく。

現在の中野祥三郎社長は、2023年4月19日(本日)の日経新聞の「私の課長時代」で、「原価の見える化」「利益重視に転換」などを推進したと語っている。

私は2010年の上海万博を訪ねた時、キッコーマンの大豆を使った事業の意義についての説明に感銘を受けたことがある。また、茂木友三郎氏には、私が講師をつとめたセミナーで野田一夫先生経由でゲスト講師をお願いし、来ていただいたこともある。

さて、初代社長茂木七郎右衛門の「時運に竿さすものは栄え逆ふものは亡ぶ」以来、「時運」、つまり時代の流れに敏感な社風が継続している感を深くする。創業の精神は、常に戻る原点なのだ。