神保町の「シェア書店」巡りーー「PASSAGE]「猫の本棚」「ネオ書房」

新宿の「中村屋サロン美術館」で「三宅一樹展」。テーマは「拝啓、碌山殿。」

 

紀伊国屋書店の2階をぶらぶら。1階で都築さんと待ち合わせ。

新宿「らんぶる」で昼食を摂りながら、橘川さん、都築さんと打合せ。

 

神保町の「シェア書店」巡り。

1:PASSAGE(鹿島茂プロデュース)。3回目。

3階にカフェができていた。

 

2:「猫の本棚」

 

 

 

3:「ネオ書房@ワンダー店」

ツアー参加者。右から、鈴木さん、下中さん、橘川さん、都築さん、田原さん、女性の名刺はどこにいったか、、後で記す。

 

都築さんと池波正太郎の行きつけの「揚子江菜館」。

「上海やきそばとシュウマイとお酒」のセット。

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 「名言との対話」4月20日。馬越恭平「元気、勇気、長生き、腹のおちつき」

馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日天保15年10月12日) - 1933年昭和8年)4月20日)は、日本実業家三井物産に勤務し、大日本麦酒日本麦酒朝日麦酒札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」とよばれた。享年88。

岡山県井原市出身。1856年、大坂で頼山陽の弟子の後藤松陰の門下で儒学を学ぶ。1859年、鴻池家の丁稚。翌年播磨屋の養子となり、1867年には二代目播磨屋仁兵衛を襲名する。

四歳年上の益田孝(後の三井物産社長)から、『セルフ・ヘルプ』(西国立志編)を勧められ、感激した馬越はこれを座右の書とした。その後、岡山から上京し三井物産に入り大活躍し、朝吹英二らと三井の三羽がらすと呼ばれる。

53歳で三井を去って、業績不振の日本麦酒(恵比寿ビール)の経営を任され、4時間睡眠で一日20時間近く働き、コスト削減と「ビールの売り込みは四者(学者・医者・役者・芸者)に集中すべし」と号令するなど営業・宣伝に知恵を絞る。1年で黒字にし、7年連続でトップシェアを実現している。1904年には日本初の「ビヤホール」(和製英語)を銀座に開店し東京の名所となった。

日露戦争後には、渋沢栄一大倉喜八郎の札幌麦酒、外山修造らの大阪麦酒(朝日麦酒の前身)と馬越の日本麦酒が大合同し、大日本麦酒が誕生し、麒麟麦酒を抜いて日本一、東洋一になった。馬越は社長に就任した。

2021年に恵比寿ガーデンにあるエビスビール記念館を訪問した。札幌麦酒、エビスビールの日本麦酒アサヒビールの大阪麦酒が合同した大日本麦酒の初代社長となった馬越恭平については「東洋のビール王」との紹介があった。夏目漱石が書いた「二百十日 野分」の一節。内田百閒のビール好きのエピソード。札幌麦酒の設立発起人と大日本麦酒の取締役をつとめた渋沢栄一。、、

見学したあとは、エビスビールを飲めるサービスがあった。こういうところも企業ミュージアムのいいところだ。

馬越恭平は88歳で亡くなるまで生涯現役で、関係した企業は90余に及んだ。仕事に打ち込む一方で、関係した女性は1600人を数えた。100人目ごとに当たった芸者を落籍して一軒家や料亭を持たせたという。スタミナの秘訣は「居眠りの名人」であったことだった。

健康法は、「早起き」「毎日の適当な運動」「食事腹八分」「禁煙」であった。「早く起きることは習慣になれば何の苦もない。しかも、早起きすれば終日愉快に仕事ができる」、と早起きの効用を語っている。猛烈な仕事ぶりの秘訣だろう。

馬越のモットーは、四つあった。1:信仰心を養うこと。2:平常、心を若くし、老成を気取らず、愉快に活動すべし。3:心配すべし、心痛すべからず。4:四気が(元気、勇気、長生き、腹のおちつき)の原点。この四気を心掛けて、取り組む事業をことごとく成功させた豪快な人生だった。

元気、勇気、長生きはわかるが、「腹のおちつき」とは何か。フラフラせずに、腹を据えて、目前の課題に邁進する気概のことではないだろうか。