「相田みつを」展。「谷川俊太郎 絵本百貨店」。知研セミナー「共著の技術」。

午前中は立川。

たましん美術館で「相田みつを」展。

息子の相田一人(相田みつを美術館館長)が選んだ50本の詩と書、一人さんの解説をみた。選んだ詩と書が素晴らしく、また愛情のこもった解説も核心をついていて、堪能した。

 

PLAY!MUSEUMUで「谷川俊太郎 絵本百貨店」。

この施設は子ども向け。谷川俊太郎の20冊の絵本を題材に、多彩なクリエイターたちは、映像、朗読、絵巻、などで味付けした作品展。母と子で楽しむ展覧会だ。

 

19時:知研幹部会:新幹事。6月、7月のセミナーの決定。官庁への報告の説明。

20時:4月の知研セミナーは、小野恒さんの「共著のノウハウ」。終了後、参加者たちで懇談。

 

以下、参加者の学び。

  • 先日、私も含めて10人の共著で「人生は迷いと決断の協奏曲」という本を出しましたが、今日の「知的生産の技術研究会」のセミナー「知研フォーラム」はこの呼びかけ人、まとめ役となってくださった方から本を共著で出すことの意義やノウハウについて講演していただきました。私にとっても初めてで、自分からはまず書こうとしないだろう自分史の一部を、このような形で書くきっかけを作っていただいたことに感謝をしております。 共著で本をつくる場合、共通のテーマをどうするかが最も重要で、企画力が必要となります。今回は「迷ったときの決め方」という共通テーマで、芯だけはしっかり保ちつつあとは自由という書く側にとってはたいへんありがたいことでした。他の方がどんなことを書いておられるか、出版直前まで知りませんでしたが、開けて見るとそれぞれ違って多様ですがその中で題名のとおり絶妙なハーモニーを奏でることができていました。 題名や10人のグループの名前、表紙を編集者に任せずみんなで決めたこともたいへんよかったと思います。  出版された本は国会図書館に必ず2部保存されることを改めて認識しました。死んだ後も残る「墓地」のようなもの。自分の存在したことを残すことも大切かな、と思った次第です。 なお、昨日見学に行ったシェア書店(共同で書店を借り切り、棚ごとに使用料を払って自分の売りたい本を並べる)の神保町Passageにも著者の一人が並べてくださっていることも知りました。
  • 4月の知研セミナーに参加させていただきました。小野さん、皆様、大変お世話になり、ありがとうございました。 今回は、共著「人生は迷いと決断の協奏曲」の編集について共著を企画された小野恒(ひさし)さんからお話をおききしました。共著の難しさや良い点など今まで知らなかったことを聞くことができ、大変興味深かったです。内容も様々な素晴らしい経験をされた方が10人も集まり自分史を書かれ一冊の本になり、ぜひ読んでみたいと思いました。自分の本をいつか出してみたいと思ってはいますが、なかなか大変な作業だと感じていてなかなか取り掛かれません。共著となると20ページで10人集まると200ページになるのでハードルがずいぶん低くなると思いました。また、共著ということで本の題名・団体の名称・表紙に関しては、皆で案を出し合して決めることが、とても民主的な感じがしました。所属している地元のあるサークルで今年度は絵本や自分の本を出そうという取り組みがあり、今回の話を参考にさせていただこうと思います。絵本は24ページくらいでできるとお聞きし、大変な作業だと思いますが、絵本作りもいいなぁと思いました。共著で本を発行すれば国会図書館で2冊買い上げて頂けたり、公共図書館が買ってもらうこともあり、本作りに魅力を感じました。大変貴重なお話をありがとうございました。
  • 三岳出版社を個人起業していますことから商業出版を目指しています。しかし部数で1000部売れる本を一人の人に求めることはかなり難しいと思っていたところでした。10人の共著の発想に関心を持ち受講しました。今回は小野さんの企画で10人が集まったという成功の話が聞けて自分も挑戦してみたく思いました。国立国会図書館に自分の本を納めてお墓の替わりにしましょうと呼びかけたいです。
  • 新年度第一弾、知研セミナー4月、無事終了いたしました。本を出すにはまず企画から、というお話で始まり、編集者、出版社との関係から「売るための本」をどう扱うか、出版スケジュールと執筆スパンはどのくらいを見込むか、基本的に編集者は宗教・政治・テニヲハ以外は修正しない、まえがきは企画者、あとがきは全員に書いてもらう、など、執筆者が個人ではなく共著にするためのノウハウを実態に基づきご解説いただきました。国会図書館が出版社から必ず2冊買ってくれる、というのは不勉強ながら初めて知った興味深いお話です。 全国の図書館を販路とすれば、自身の本が様々な地方で読まれることにもなります。今回は全10人の著作者のうち、4名もの方々にご来会いただき、なぜ書いたのか、書いた渦中のことを含め人生上の波乱と決断をお話してくださいました。小野さん、貴重な体験とノウハウをありがとうございました!!
  • 4月の知研セミナー「共著出版ことはじめ」に参加させていただきました。今回は、3月に出版された「人生は迷いと決断の協奏曲」の呼びかけ人である小野氏から、企画段階から出版までの経緯(取り組んだこと)をはじめ、いわゆる「本を出す」ことについてのポイント、単著と共著との違いなど、実際に体験したことを交えながら具体的に解説いただきました。私としては、出版までの手順やスケジュール、出版社の営業との関わり、図書館協会への働きかけなど、初めて聞くことが多かったのでとても面白かったです。また、参加者から「本を出版したい理由は、国会図書館に自分の本が保管されることで、自身が亡くなったあとも本が残る、そうして足跡を残したい。」というお話もありました。国会図書館がお墓のような存在になるとのこと。こちらも初めて聞いた考え方で驚くとともに素晴らしい発想だと思いました。本を出すことは、自分の言葉や文章を世に出すということなので、私にとってはハードルが高いものですが、企画や作成方法によってはチャレンジできるかも?とほんの少し思えるようになりました。どうもありがとうございました。
    ーーーーーーーーーーーーーー
    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a6/Kizo_Tamari%2C_Professor_of_Horticulture.jpg
    「名言との対話」4月21日。玉利喜造「除虫菊。大丈夫。べと病。養蜂改良説」
    玉利 喜造(たまり きぞう、1856年5月28日安政3年4月25日) - 1931年昭和6年)4月21日)は、日本農学者。享年74。
    鹿児島市出身。駒場農学校の卒業式で、農学科の優等第一として、農学士の学位を受け、代表として答辞を読んだ。その後、農学校の助教授となる、。1885年にアメリカにわたり、ミシガン州立農学校、イリノイ州立大学で学ぶ。1887年に帰国し、帝国大学農科大学助教授、教授を歴任し、園芸と畜産を講義した。
    1885年のアメリカ出張時にカリフォルニアから持ち帰り、除虫菊を栽培。
    1888年、キュウリの新しい病気をの病原菌を発見し、べと病と命名
    1889年、アメリカからネーブル・オレンジを栽培。
    玉利は日本初の人工交配を試みた農学者である。ワタ・大豆などの交配。大麦の「大丈夫」などの育成。そして雑種交配で強勢になることを発見し、品種改良への道を拓いている。
    園芸学、畜産学、植物病理学と幅広い分野で活躍している。また地域農業の発展のために、地方農会の育成にも熱心だった。また1889年にはアメリカ式養蜂を紹介した『養蜂改良説』を発刊している。
    1903年には、40代半ばで帝国大学教授を辞任し、新設の岩手高等農林学校の初代校長、1909年には新設の鹿児島高等農林の初代校長となった。人材育成に熱心だった。鹿児島高等農林の後継の鹿児島大学農学部には、玉利池、玉利通りがあり、胸像も立っている。
    薩摩閥は政界、官界で名を成した人物が多いが、学問においても玉利のような先駆者を生んでいることを知った。玉利は、植物の育成だけでなく、人物の育成にも大きな関心を持ち、その責めを果たした。50代前半で郷里の鹿児島に帰り亡くなるまで20年にわたり活躍し、貴族院の勅撰議員の在任中に死去している。
    玉利喜造は、若槻礼次郎総理時代に「終始熱心子弟ノ薫陶」「豊富ナル学識」「資料ヲ蒐集」、そして「農学界ノ第一人者」との功績で叙勲されている。研究と教育と実践を兼ね備えた日本の農学界の第一人者であった。