今日の収穫(4月)。兄弟会。春の叙勲「藤原勝紀」。ラジオ深夜便「寺島実郎」。

今日の収穫(日経新聞の記事からピックアップ)

  • 永田和宏歌人)「植物の名前を一つ、星座の名前を一つ知っているだけで世界は豊かになる。歌を一首知っているとまた彩が増す。、、、日々の生活の豊かさ、世界の見え方の余裕こそ、、、、、我々が限られた〈生の時間〉を生きていく上で、より大切ではないか」
  • 槇真也(建築家)「大きさや予算の問題じゃない。いつでも面白いことに挑戦してたいのが建築家という生き物です」
  • 吉田松陰(教育者)「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯言うべきことを言うのみ」
  • 林真理子(作家)「人生を使いきること。人生後半に再びスタートラインに立った私は伝えたいことがたくさんあった。さあ、もうひと頑張りしましょう」
  • 宗像和重近代文学)「(徳田秋声)は、大家然とせず現実に慣れず、新鮮な目で観察を重ねて、年齢に連れ作品が新しくなったのが秋声の特徴」

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JAL時代の仲間の天明さんの「茶房・はちはち」(飯田橋)で兄弟会。

3時間以上、笑いこけながら食事。今日も初めて知ることがあった。

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午前

電車:ラジオ深夜便で4月29日の寺島実郎さんのインタビューを聴く。「緒についたところ」という心意気に感銘。

夜:デメケンのミーティング

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「名言との対話」5月1日。萬鉄五郎「画家は明日を憂えてはいけない。今日、今、最も忠実でなければならない」

萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1])は、大正昭和初期の洋画家。 享年41。

岩手県花巻市東和町出身。早稲田中学からサンフランシスコの美術学校で修業するが地震で帰国。1907年東京美術学校学校西洋画科で学ぶ。卒業制作は「裸体美人」。これは草の上に赤い腰巻をして裸婦が寝転んでいる絵である。日本の置けるフォーヴィスムの先駆的な作品とされている。1914年から16年にかけて故郷で制作に没頭する。「ぼくは眼を開けているときは即ち絵をかいている時だ」と友人への手紙に書いている。1917年、二科展に「もたれて立つ人」を出品。この作品は日本におけるキュービスムの最初の記念碑的な絵との評価を受けている。

萬鉄五郎は日本近代美術の先駆者の一人である前衛画家だ。萬の出た小学校が1984年に萬鉄五郎記念美術館になっている。私は2007年にここを訪れたことがある。生家の土蔵を復元した隣の「八丁土蔵」の2階で、萬鉄五郎の作品や生涯をハイビジョン映像で楽しめる。

黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として、萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。「自分が南画から消化し吸収すべき点があるとすれば、先ず第一に人間的なリズムと云う言葉によって代表せられる、プリンシプル、精神の世界を高調する思想及び人格拡充の主義、而して漢詩的構図は、新しき自分の詩によって置換えられても差支えないと思う」と「玉堂琴士の事及び余談」の中で述べている。

棟方志功は幾度となく萬の作品を前にしては高価で手に入れることができず、ようやく手にした萬の自画像の額裏に「萬鉄五郎先醒(せんせい)」と書いた紙を貼り、生涯大事にしたというエピソードがある。棟方は、「わたくしは萬氏の繪の事については、際限を持たない。それ程、わたくしは「萬鐵に首つたけ惚れて」ゐるのだ。仕方がない程、参つてゐるのだ」とも記している。(「『萬鐵』の繪心」『板響神』1952年刊)とその心酔ぶりを記している。大正期の画家萬鉄五郎に対して、日本の真実を油彩でなしとげた無類の人と手ばなしで認めていたのである。

萬鉄五郎は「画家は」というが、しかしどのような職業、どのような人にも「今日、今」という言葉は重要だ。