東京薬科大学史料館(八王子キャンパス)を訪問。大学ミュージアムだ。薬学の歴史、そして学祖を含めて功績にのあった人物を顕彰している史料館。
農学・薬学・商業の創始者である神農(炎帝)は薬の神様として讃えられている。
薬学は日本では「本草学」として発展。医師は「くすし」と呼ばれていた。
1880年、東京薬舗学校は34歳の藤田正方(学祖)が創設。薬舗主(薬剤師)の養成。1886年にコレラで39歳で死去。医師であった藤田は薬学の基礎から臨床まで幅広い分野の重要な書籍を刊行した人物。
1888年、薬学校の初代校長は下山順一郎。日本の薬学のパイオニア。「花咲け薬学」が建学の精神。
1917年、東京薬学専門学校の初代校長の丹波敬三は衛生、裁判に功績。二代目の池口慶三は薬剤師の地位向上を法的に確立。
丹波は神農について「あらゆる天然物を吟味し、良薬を選定し、人民の病苦を救い、長寿ならしめた。その功績は無限である」と述べている。
1949年、東京薬科大学の初代学長は村山義温。卒業生は4万人。2020年に創立140年。
史料館見学の後、薬用植物園を散策。
その後、学内のレストランで昼食。
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万葉歌碑の旅。八王子。
常光山観音院。
「わがいけにつみもけがれもすすぎおけ だいひのじひにもれなもろびと」
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「名言との対話」5 月2 日。鈴木與平(6代目)「婿養子」
鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日 - 1940年(昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家、政治家。
静岡県静岡市清水区生まれ。東京高商在学中に、鈴木家の婿養子となる。卒業後10年ほどたった1917年に家督を相続し鈴木與平の名を継いだ。
1919年、静岡県会議員。日本郵船等を経て、家業である鈴木與平商店を経営する。1936年、鈴与商店を設立。清水商工会議所をはじめ、倉庫、塩業、運送、機械等、次々と新会社を設立した。
公職では、清水市議会議長、静岡県会議長、清水商工会議会頭などを歴任した。1939年には多額納税者として貴族院議員に互選されている。
旧清水市を土台に静岡県の産業を牽引した鈴木與平は、創業者の名前を継いだ6代目である。江戸時代の1801年(享和元年)に鈴木與平という人物が回漕業・播磨屋をはじめた。それが200年後の現在も存続しているということになる。この婿養子を選んだことは鈴木家にとっては大成功だった。
ところで、この「名言との対話」で、近代を中心に人物たちの足跡を追っていると、「養子」という言葉によくでくわす。江戸時代からも日本では「養子」が多かった。シャープ2代目の佐伯旭は早川徳次の養子。九谷焼の徳田八十吉も養子。キッコーマンの茂木啓三郎も養子。吉田茂は横浜の貿易商の養子。斎藤茂吉は斎藤病院の養子。平櫛田中は実家の田中を名前につけている。高橋是清、青木周蔵、湯川秀樹、、。夏目漱石も養子に出さたことがある。
「婿養子」ということも多くあった。横浜の生糸貿易商・原三渓(富太郎)。富士屋ホテルを大きく発展させた山口正造。日本生命の社長を35年つとめた弘世現。庄屋を再興した伊能忠敬。、、、
こうやってみると、日本は「家」の存続と繁栄を至上の価値として歴史を編んできたことがわかる。意外にも血筋、血統、肉親を大事にしない。家が大事だから、男子の養子をとり、娘には婿をむかえることができるから、娘が生まれると親は喜んだそうだ。その婿は内部からの場合もあるし、外から招く場合もある。いずれにしても、養子たちは、自分に課せられたテーマを意識し、その家の歴史を知り、人生を組み立てていくから、実子よりも強い使命感を持つことが多くなる。
日本の家という制度は、実は法人であったということだ。実子、養子、婿養子、あらゆる方法を用いて「家」の存続を図ったのである。「家の再興」を息子に託す親や、それをテーマとして人生の荒波に漕ぎ出す人も多くあったのだ。明治維新で西欧から株式会社という制度が入ってきたが、日本がいち早く適応したのは、そういう思想がもともとあったからなのだ。
鈴木與平については、「6代目」に着目して書いてみた。「婿養子」という言葉を採ることにしよう。