産経新聞大阪版のコラム「湊町365」に取り上げてもらった。訪問した人物記念館10館の記録を書き上げる。

4月と連休中に訪問した人物記念館10館の記録を書き上げる。

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産経新聞大阪版5月6日夕刊のコラム「湊町365」の名前が載っているとの連絡を黒木安馬さんから受けた。黒木さんはJALの客室乗務員だった人で有名人。HP黒木安馬2018 - 新規サイト006 (biglobe.ne.jp) ありがとうございます。

夜:ユーチュブ「遅咲き偉人伝」の録画は「小津安二郎」。

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5月7日が命日の、近代の人物を見つけることができなかったので、誕生日が5月7日の本居宣長を取り上げた。宣長は文化時代の1801年の没しているから、文化文政から日本の近代が」始まるという考えにあっている。また本居宣長こそ、明治維新のエネルギーの発信源だった」から、ゆるしてもらおう。

「名言との対話」5月7日。本居宣長「志として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ」「しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみつとめることが肝要である。まなび方はいかようにしてもよいだろう。」

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5) は、江戸時代国学者・文献学者・医師。「古事記伝」44巻を完成。享年71。

本居宣長は、34才で伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。35歳で着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年に亡くなっている。宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新尊皇攘夷運動の原動力となっていく。近代を真っ先に切り拓いた人である。

宣長は記録魔だった。日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を指示している。日記には、あらゆる日常が記されている。日々の天候、社寺参詣の事、身辺の冠婚葬祭、歌会、講義、会読、自己及び家族近親の往来、旅行、病気、書簡の往来、町内の些事、出産等の慶事の記録。幕府・藩侯からのお触れ、天変地異、火事、寺院の開帳、芝居の興行。皇室をはじめ、幕府・藩の高官の動向、大坂・江戸・京都の様子、参宮などの往来。毎年の記載の終わりには米価の相場も記録していた。を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。 

宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。近所や親戚との付き合いをそつなくこなし、支出を省く。そうやって時間を捻出し、金をつくり書物を買い、そして学問の道に励んだ。学問する環境をいかに整えていったか、そして日常生活をいかに効率的に過ごすかというマニュアルが膨大に残っている。

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。

  • 「道をまなぼうとこころざすひとびとは、第一にからごころ、儒のこころをきれいさっぱり洗い去って、やまとたましいを堅固にすることを肝要とする。」
  • 「総じて漢籍はことばがうまく、ものの理非を口がしこくいいまわしているから、ひとがつい釣りこまれる。
  • 才のとぼしいこと、まなぶことの晩(おそ)いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。なににしても、つとめさえすれば、事はできるとおもってよい。
  • 主として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめよりこころざしを高く大きく立てて、つとめまなばなくてはならぬ。

自らのテーマに沿って、あらゆる言い訳はしないで、うまず、たゆまず、学んでいくことが大事であると宣長はいう。35歳の時に着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。この本居宣長の言葉だけに納得感が深い。

2010年に三重県松坂市の本居宣長記念館を訪問し、田中康二『本居宣長』、橋本治小林秀雄の恵み』を読み、また本居宣長自身の著作『葦わけ小船』、『宇井山踏』を読む機会があり、本居宣長の生涯と主張に深く共感している。

宣長は記録魔だった。そして継続の人だった。志を立て、うまずたゆまず進んでいけば、何ごとも達成できる。そして世界を変えることができる。そういうことを本居宣長尊い人生は教えてくれる。

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以下、本居宣長を書くにあたって、過去に書いた文章を挙げておく。

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田中康二「本居宣長」(中公新書)を読了。この本では20歳代を学問の出発、30歳代を人生の転機、40歳代を自省の歳月、50歳代を論争の季節、60歳代を学問の完成、70歳代を鈴屋の行方とし、それぞれを章にあてている。

神学という道である古道学を学ぼうとする人は、漢意(からごころ)儒意による汚れを洗い落として大和魂を堅固にすることが肝要であると述べている。仏教儒教が日本をダメにしたという没落史観である。儒教仏教が入ってくる前の日本を取り戻すために、記紀、とりわけ古事記聖典としたのである。
そして国学を志す者は歌を詠み、歌書を研究すべきとする。詠歌と歌学の両立が必要である。万葉集で古代人の心を知り、古代の道を知る。

20代の5年半の京都留学では、本来の医学修業に加え、師の掘景山を通じて国学の始祖・契沖の書に親しむ。契沖学は文証という証拠を重視する文献実証主義を学んだ。
歌は二条派歌学を体得した。

有名な「「松坂の一夜」で宣長は開眼する。賀茂真淵67歳、本居宣長34歳で、実に33歳の年齢差であった。この後の書状による質疑応答は真淵が亡くなるまで6年に及んだのである。

宣長の代表作の「古事記伝」は30有余年を費やした大著である。これは古事記を忠実に訓読する作業ではなかった。古事記の翻訳される前の口承で伝わっていた原・古事記を復元する作業だった。それは失われた大和言葉を取り戻すための膨大な作作業の連続だったのだ。

物のあはれ、とは五感で感じ、物事の本質を体得するということである。仏教の因果応報説、儒教の勧善懲悪説とは違う。これが日本の国柄なのである。源氏物語などの物語は、物のあはれを知るために書かれたと宣長はいう。歌を詠むのも物のあはれを知るためだ。

日本の神の道は、老荘思想の天地自然の道でもなく、儒教の聖人の道でもない。連綿と続いてきた噛みながらの道である。

30歳。 もろこしの人に見せばやひの本の花のさかりのもよしのの山
44歳の自画像。 めずらしきこまもろこしのはなよりもあかぬいろかは桜なりけり
61歳の自画像。 しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花

宣長は39歳の処女作以来、旺盛な仕事量であった。研究成果の公刊という視点でみると60歳代がピークであった。生前の刊行の半数が60歳代であった。
1798年の69歳で「古事記伝」を完成させた。松坂の一夜から35年、初稿を仕上げた年から32年という歳月がかかっている。6月に最終巻の清書が完成し、9月に「古事記伝」終業慶賀の月見会が鈴屋で盛大に行われている。この「古事記伝」のすべて44巻が刊行されたのは1822年であり、没後20年以上が経っていた。

70代に入って宣長は死に支度を始めて、72歳で没する。起承転結のある見事な人生だと感服する。天寿を全うしたのだ。

江戸時代の正学であった儒教儒者に「よる拝外思想から、宣長の日本中心の排外思想へのコペルニクス的転回は、明治維新の原動力になっていく。

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「葦わけ小船」(あしわけおぶね)は、本居宣長の20代の作品で、宣長の文芸論の処女作である。「よい歌」とは何か、を論じている。歌はまさに「本」であり、すべてはここから生まれているということだ。宣長の生涯のテーマ「物のあはれ」に通じる所論である。

  • 善悪、吉凶、うれい、かなしみ、よろこび、いかり、そのいずれにも役立つのが歌であり、こころがあふれ、ことばが幽玄のふかみにとどいていれば、鬼神もこれに感動するのである。
  • いったい好色の道ほどふかく人情に根ざしたものはなく、すべてのひとがそれをねがうのだから、恋の歌が多いのは当然である。
  • 歌にはしらべがなくてはならない。
  • 歌の道の根本は風雅なのだから、平生からこころのもちかたはもとより、身のこなし方にいたるまで、温雅をむねとすべきである。
  • 歌の学問のためには「万葉集」第一だが、歌をよむ手引きとしては、「万葉集」は三代集(「古今」「後撰」「拾遺」)におとる。
  • 「新古今」の名歌は、花と実のふたつをそなえて、じつにみごとである。
  • 何万年をへようと、人情という根本にかわりがないかぎり、よみつくされることのないのが、この歌の道である。
  • 志を述べるものが詩であり、その詩をながく声をひいてうたうのが歌である。
  • 春のおとずれをきく朝から、雪にとざされる年の暮れ、ひとつとして歌の趣向にならないものはない。
  • 見るもの、きくもの、あるいは、うつりかわる四季の風物などを、おりにふれ、こころにふれて歌によみ、それに工夫をこらす、という習慣ができていれば、この世の中につまらないものはひとつもない。
  • はじめは風雅をしらなかったひとが歌や詩をまなぶうちに、やがて花鳥風月をたのしむこころをそだてたりするのは、、、
  • 情でも、ことばでも、とにかくなにか手がかりをみつけたら、それを中心に考えをすすめてゆく。そうすれば自然にこころもしずまることを、よくしっておく必要がある。
  • 歌はその人情をよむものなのだから、人情にふさわしく、しどけなく、はかなく、つたないものであるのは当然である。
  • わが国にある連歌俳諧、謡、浄瑠璃、小唄、童謡、俗曲などは、みな歌からでたもので、歌の支流、あるいは音節や形式上の変種である。そこでこういうものと歌を比較するのは見当ちがいである。
  • じっさい、民情をしる手がかりとして、歌ほど役に立つものはない。
  • 「てにをは」は、歌がいちばん大事にすることである。いや、歌にかぎらず、すべてわが国のことばは、「てにをは」のはたらきによってはっきりした意味がきまるのである。
  • 万葉集」は、勅令にもとづいて編纂されたものではなく、またきびしい選択をへたものでもなく、ただ大伴家持などが私人の資格で聞書をすうようにしてあつめたものなので、玉石混淆のきらいがあり、その中にはとるにたりない歌もかなりまじっている。

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本居宣長の「宇井山踏」は、宣長が畢竟の大作「古事記伝」を34年の歳月をかけて書き終え、門生たちから学びのための道しるべを書いて欲しいとの懇望があったのにようやく答えることにした書物である。何を学ぶか、いかに学ぶかが主題である。漢意(からごころ)を排し、日本に帰れという主張は、中国を欧米と置き換えて読めば現在の私達へ向けたメッセージにもみえる。儒教道徳に染まりきった幕末の時代に、本居宣長の思想の強い衝撃が明治維新を生んだことに思いを馳せる。何を学ぶかということもあるが、この書はいかに学ぶかという視点からも多くの示唆が与えられる。寛政十年(1798年)十月二十一日の夕べに書き終えている。200年以上前の宣長69才の書である。

 いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるしべばかりも

  • しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみつとめることが肝要である。
  • 晩学のひとも、つとめてはげめば、おもいのほか効果をあげることがある。また暇のないひとも、おもいのほか、暇の多いひとよりも効果を見せもする。それだから、才のとぼしいこと、まなぶことの晩いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。
  • 道をまなぼうとこころざすひとびとは、第一にからごころ、儒のこころをきれいさっぱり洗い去って、やまとたましいを堅固にすることを肝要とする。
  • 古事記日本書紀古語拾遺万葉集続日本紀日本後紀続日本後紀、文徳実録、三代実録。(日本書紀よりあわせて六国史。朝廷の正史)。延喜式(「祝詞」)、姓氏録、和名抄、貞観儀式、出雲国風土記釈日本紀、令、西宮記、北山抄、そして古事記伝伊勢物語源氏物語
  • 漢籍を見るには、とくにやまとたましいをよくかためておいて見なくては、かの文辞の綾にまどわされもしようぞ。この心得が肝要である。
  • 皇国の学をこそただ学問といって、漢学をこそ区別して漢学というべきところである。
  • まずよそのことばにかかずらわってわが内の国のことを知らないのは、くちおしいわざではないか。
  • 力のかぎり、古代の道をあきらかにして、その趣旨を人にも教えさとし、本にも書きのこして「おいて、たとい五百年、千年の後にもせよ、時節めぐり来て、上これを取り、これをおこなって、天下にさずけほどこすであろう世を待たなくてはならぬ。これぞ宣長のこころざである。
  • 古事記」は、、、ただ古代よりの伝説のままに、書きぶりは至極みごとなものにて、上代ありさまを知るにはこれにおよぶものがない、、、。それゆえに、このわれも壮年より数十年のあいだ、身もこころもかたむけて、この記の伝四十四巻をあらわして、古学のしるべとはした。
  • わからぬところはまあそのままにして読みすごせばよい。、、ただよくわかっているところをこそ、気をつけて、深くあじわうがよい。
  • 総じて漢籍はことばがうまく、ものの理非を口がしこくいいまわしているから、ひとがつい釣りこまれる。
  • すべて神の道は儒仏などの道とちがって、是非善悪をうるさく詮議するような理屈は露ほどもなく、ただゆたかに鷹揚に、みやびなものにて、歌のおもむきこそよくこれに合ってぴたりとする。
  • 古きをしたいとうとぶというなら、かならずまずその根本の道をこそ第一に深く心がけて、筋目をあきらかにしてさとるべきっことなのに、これをさしおいて、末にだえかかわりあうのは、まことに古きを好むというものではない。

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橋本治小林秀雄の恵み』。『本居宣長』という書物小林秀雄が63歳から書き始めて、単行本になったのが75歳のときであり、小林秀雄のライフワークとして見事な完成を見せ、輝ける名声をさらに高めた名著である、ということになっている。それは誰も疑わなかった。しかし橋本治は、この書は本居宣長を「学問する人」という片面しか見ていないと述べている。「源氏物語」の世界を憧憬しそれを生んだ土壌のルーツを求め「古事記」にすすむという道をたどる宣長の本質、つまり本(モト)は「和歌を詠む人」であり、学問は末(スエ)で従たる位置を占めている。だから誠実な小林秀雄本居宣長を全的に認識できずに難渋しており、それが名著と言われている「本居宣長」を難解な作品にしている。宣長の二つの墓を証拠にもして「和歌の宣長」を橋本治は実証している。つまり橋本治小林秀雄本居宣長という人物を見誤ったと断定しているのだ。

連歌、俳句、謡曲浄瑠璃、小歌、童謡、音曲の類の本(モト)である和歌を宣長は最上位においていた。それは日本文化の本来のあり方に自分(宣長)はのっとっているという自負があるということである。和歌のテーマは日本人が持ってきた変わらぬ不動のテーマである。和歌のテーマは「物のあはれ」を詠むことであり、それは「人の情(ココロ)の、事にふれて感(ウゴ)く」ということに尽きる。論理の人である小林秀雄は、「全的な認識」という言葉を持ち出して複雑にしてしまう。橋本治は、「物のあはれ」を小林秀雄は頭でわかろうとしたため、本当はわかっていなかったのでないかという疑問を発している。

学問する人である小林秀雄は、自らの生涯の価値を決定づける作品である「本居宣長」を63歳から書き始める。兼好にもベルグソンにも物足らない。長い年月をかけて探し出したのは、本居宣長という大きな対象だった。この宣長を十全に書くことによって小林秀雄は本当の小林秀雄をになれるはずだった。宣長小林秀雄は一致もあったが、ズレも大きい。自身の遺書である「本居宣長」に書かれた本居宣長は、宣長の一面である「学問の人」小林秀雄そのものとなった。

日本という国は、常に外国から異様な情熱で学んできた。古くは中国、近代に入って欧州、現代はアメリカがその畏敬の対象であった。宣長が生きた江戸時代もそうであったし、明治以降特にその傾向が顕著に出ている。しかし日本の国柄を極めるという一方の営為がなければ、精神的崩壊が待っている。それを本居宣長は、神話として日本人が歯牙にかけなかった「古事記」に求めた。そしてその答えは確実にあった。宣長はそのような歴史と土壌の中で生まれ死んでいくことを理解したのである。宣長の仮想敵は、「漢意」(カラゴコロ)だった。この敵を相手にする中で本来の「日本」を掘り出していく。これが儒教仏教を排撃し、反体制の尊王攘夷思想を生んで行く。

小林秀雄は日本の近代の入口を求めて、近世を旅する。それは武者達が闊歩する戦国時代から始まるのだが、その風潮は「下剋上」という言葉で表わされる。大槻文彦の「大言海」には、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。とすれば民主主義を標榜する近代は、実は近世から始まるともいえるのである。近世思想のトップランナーと小林が位置づける中江藤樹は、庶民が「学問する権利」を発見する。それは、熊沢蕃山、契沖、伊藤仁斎荻生徂徠、そして本居宣長に受け継がれていく。私学の中江藤樹に対して江戸時代の官学には林羅山がいる。国学という民間学に対し、体制を護る官学とは朱子学儒教である。橋本治は、世の中から崇められる神様・小林秀雄は私学に興味を持ったが、その本質は官学であると言っている。小林秀雄林羅山であるという衝撃を橋本治は用意する。立ち位置と言説の分裂がおこっているというのだ。

小林秀雄という山は大きな存在感に満ちている。一応は文芸評論家という肩書で紹介されているが、その仕事をなぞってみるととてもそのような表現で説明できる人物ではない。文芸にとどまらず、「モオツアルト」などの音楽、「ゴッホの手紙」などの絵画、などあらゆるジャンルで一流の活動をしている。音楽絵画、文学を同列に置いたマルチメディア評論家ということになる。「平家物語」の「宇治川先陣」の流麗な文章を小林秀雄は「大音楽」と言っている。文章から音楽が聞こえるというのである。「無常ということ」はこれまた有名な本でよく読まれたのだが、戦争状態は無常であり、常なるものは歴史であり、その遺産としての古典であり、古典を読もうというように解釈できると橋本治はいう。戦争時の小林秀雄の講演では、戦争のばかばかしさを前提にした論陣を張っており反戦的ととられてもおかしくない主張をしているが、危険人物とはみなされていない。誰からも理解されないために安全であるという奇妙な役どころを上手に演じている。

近世という時代は非合理な神を存在させながら、一方を合理性で支配するという時代だった。神は神として置いといて、しかしそれとは関係なく実生活をまわしていく、そういう時代だった。それは日本思想のゴールであり、本質的な態度だった。自分は兼好法師ではないことに気がついた小林秀雄は、自身をむき出しにして己を求める僧侶・西行に行く。仏教は門口のみ用意しあとは自由という宗教であり、仏はただ伴走するのみであり、ゴールへ導いてはくれない。神が空白として存在していた日本人は、「桜」を代入した。桜は、神であると同時に自分自身でもある。だから西行はその空白を自分でうめ続けた自助努力と自己達成の人であって、近代人でもあるということになる。芭蕉は自分を問題にしないで、俳句の中で、水の音、最上川、夏草、を神にしたてあげる。その強さは日本人にとっては当たり前のことだったのである。

「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」という本居宣長の歌は、私の本質は桜であるという意味でありそれ以上ではない。二つの墓のうち私的な墓にはなにも書くなと命じた宣長は、生業でああった医者でもなき、ただ本居宣長であるだけでいい、それ以外の何者でも自分はないということを示している。森鴎外の墓にも「森林太郎墓」とだけある。また、原敬も「原敬墓」である。国学者でも文学者でも政治家でもなく、自分自身であるということなのが古道なのだろうか。

「本ヲオイテ、末ヲモトメンヤ」という宣長は、当然のことながら漢意に汚染された日本書紀ではなく、「古事記」へ向う。しかし、小林秀雄は、「古事記伝」を書いた本居宣長に関心があって、「古事記」そのものには関心がない。小林秀雄は思想よりも、人に関心がある。自分に重ね合わせて生き方を考えているのだろう。

この本の中で橋本治は、しだいに小林秀雄の正体を丁寧に薄皮を剥ぐように見せていく。その手腕はなみたいていの腕ではない。小林秀雄本人が小林秀雄を容赦なく批評しているという感覚を持った。ある時代を風靡した小林秀雄という神は、時代を通り抜けるトンネルのような役割を持っていたと橋本はいう。トンネルを抜ければ掘った人は忘れられる。そういう存在である。

この書を書き終えた時点で、橋本治中江藤樹以降の系譜を学ぼうとするが、それをやってはいない。私は橋本治のこの考えに深く共感する。そして本居宣長という存在に大きな関心を持った。橋本治にとって小林秀雄が恵みであったように、橋本治も私の「恵み」であり、私のトンネルであった。

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本居宣長の初学のための入門書『宇比山踏』(ういやまぶみ)

「、、、、今は「古事記伝」も書きおえたことだからといって、またしきりにうながされては、そうそう捨ておきがたくて、筆をとったものである。、、初学のためにはいささか益になるようなふしもあろうか。 いかならむうひの山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも   本居宣長」。「寛政十年十月の二十一日の夕に書き終える」

これは、「宇比山踏」(ういやまぶみ)の最後の部分である。宣長69歳。寛政十年の六月に生涯の大作「古事記伝」が完成したあとに、初学者のための勉強の方法と心構えを書いた入門書である。今日にも通じるありがたいアドバイスだ。

以下、こちらの琴線に触れた箇所を記す。

  • しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみつとめることが肝要である。まなび方はいかようにしてもよいだろう。
  • 才のとぼしいこと、まなぶことの晩(おそ)いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。なににしても、つとめさえすれば、事はできるとおもってよい。
  • 主として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめよりこころざしを高く大きく立てて、つとめまなばなくてはならぬ。
  • 漢籍を見るには、とくにやまとたまいをよくかためておいて見なくては、かの文辞の綾にまどわされもしようぞ。この心得が肝要である。
  • 記紀ののつぎには「万葉集」をよくまなばなくてはならぬ。
  • 皇国の学をこそただ学問といって、漢学をこそ区別して漢学というべきところである。
  • 天地の間にわたってとくにすぐれた道あり、そのまことの道の伝わっているわが国に生まれて来たことはもっけのさいわいなのだから、いかにもこのとうとい国の道をまなぶべきことは、いうまでもない。
  • されば力のかぎり、古代の道をあきらかにして、その趣旨を人にも教えさとし、本にも書きのこしておいて、たとい五百年、千年の後にもせよ、時節巡り来て、上これを取り、これをおこなって、天下にさずけほどこすであろう世を待たなくてはならぬ。これぞ宣長のこころざしである。
  • わからぬこところはまあそのままにして読みすごせばよい。、、、ただよくわかっているところをこそ、気をつけて、深くあじわうがよい。
  • 総じて漢籍はことばがうまく、ものの理非を口がしこくいいまわしているから、ひとがつい釣り込まれる。
  • 自分でなにかの注釈でもしようと、こころがけて見るときには、どの書であろうと、格別に念が入って来て、見方のくえわしくなるものにて、それにつれて、また他のことにも得るところが多いものである。
  • すべて神の道は儒仏などの道とちがって、是非善悪をうるさく詮議するような理屈は露ほどもなく、ただゆたかに鷹揚に、みやびなものにて、歌のおもむきこそよくこれに合ってぴたりとする。

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2010年に三重県松坂市の本居宣長記念館を訪問した。朝7時50分の近鉄特急で前日集合した妻と一緒に三重県松阪へ向かう。コンビナートの四日市、県庁のある津市を過ぎて松坂に到着。松阪は、戦国武将・蒲生氏郷が1588年に城を築いた町で、楽市楽座などの善政を行ったため、商人の町として発展する。松坂商人と呼ばれていた。三井家の発祥の地でもある。
雨の中、「財団法人鈴屋遺蹟保存会 本居宣長記念館」に到着。

今年1月3日のこのブログの記事を以下に記す。本居宣長(1730-1801年)は、35歳の時に着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。

宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。近所や親戚との付き合いをそつなくこなし、支出を省く。そうやって時間を捻出し、金をつくり書物を買い、そして学問の道に励んだ。学問する環境をいかに整えていったか、そして日常生活をいかに効率的に過ごすかというマニュアルが膨大に残っている。

「されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止(や)むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくずるるは、学問に大にきらふ事ずかし」(自分には才能がない、学問を始めたのが遅い、勉強する時間がないからといって、学ぶことを怠ってはいけない。如何なる場合も諦めず努力しさえすれば、目的は達し得るものであることを知るべきである。道半ばで挫折をしてしまうことが、学問の神様の最も嫌うところである)

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。養子の太平が描いた図が残っている。「恩頼図」といって、自分の学問にあたって恩を受けた人々と、自分を通してその学問に連なる人々の名前が記録されている。中央に宣長自身と、宣長が著した古事記伝を中心とする著書も配置されている。
三重県の松坂には本居宣長記念館(吉田悦之館長)があり、そこには1万6千点に及ぶ宣長に関する資料が保存されている。今年はこの記念館にも訪れたい。

致知」という雑誌に、本居宣長記念館の吉田悦之館長のインタビュー記事が載っており、その内容に誘われて行くことになったので、館長さんを訪ねて少し話をを聞いた。
本居宣長は、感謝の念が根本にあった。父母、先生、孔子、、垂加神道などの敵方、、」「生きていることに感謝していた人だ」「手抜きしない人。学問、医者、町人、親戚付き合い、、、。」「「古事記伝」は実に面白い」「明るい人です」わからないが、私はここまで考えてみた、という言い方」「次の人、未来の人にあとは任せたい」」「500年後、1000年後の未来の人に向かってボールを投げた」「源氏物語宣長の700年前、古事記は1000年前」「この記念館は先人の旧宅保存のさきがけ。1968年に重要文化財に指定された。歴史史料としれは初めて」「1970年にできた記念館はその後の記念館のモデルとなった」「「学問の道」というアイデアが松阪に出てきた」「旧宅に上がって宣長を偲んで下さい」

本居宣長は、最初商人にさせようとした母から、江戸での丁稚奉公や商人としての経験を積まされたり(16才)、商人の家に養子に入るがすぐに離縁されたりしている。、学問に気をとられてうまくいかない。母は学問に身を入れて医者になれと勧め、その合間に好きな和歌や文学をすることをすすめ、今日との堀恵山に弟子入りをする。迷いの多い青春時代だった。そして26才で医者になり春庵と称す。34才にときに伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。「古事記伝」の基礎と成る万葉集の4500首の和歌の言葉の疑問点を真淵に送った、質問は1000項目に及んでいる。万葉集で「やまとこば」を学び、その後「古事記」に進むのがよいだろうといアドバイスされたのである。35才で「古事記伝」の準備に着手する。この頃冒頭の七百字の注に3年半をかけている。39才で「古事記伝」巻四の稿がなる。そして69才で「古事記伝」四十四巻を脱稿する。この間、実に35年。1801年に72才で没するのだが、「古事記伝」全巻が刊行したのは、21年後の1822年だった。
恋が人の心の根本であり、それをうたった和歌の研究をしたいと宣長は思った。万葉集古今和歌集、国文学の研究に没頭する。「恋なくば人は心のなかりけり もののあはれはこれよりぞ知る」(?)という藤原俊成の歌が、本質を示していると感じていた。

古事記をよめば、日本の本当の姿がわかる」
「学問というものはただ年月長く飽きることなく怠ることなく努力することが大事で、方法というのはあまり問題ではない」
「歌はもののあはれを知ることによって生じる」
もののあはれとは、人生のさまざまな事がらを見聞きし、体験するにつれて、それらの事柄の意味を心に深く感じることによって、人の心の中に起こる感動をいう」
もののあはれに耐え難いとき、自然にその思いを言葉に言い出してしまう。その言葉は、「必長く延て文あるもの」になり。そこに和歌が生じるのである」

本居宣長は、儒学仏教の影響を受ける前の日本人の考え方や信仰、宇宙観が古事記に書かれていると確信していた。

余談だが、宣長はヘビースモーカーだった。煙がすごくて苦情が多かった。1904年に日露戦争の戦費をまかなうために政府は専売たばこを販売するが、銘柄は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられた。これは、「敷島の大和心を人問うはば朝日に匂ふ山桜花」という宣長の有名な歌からとったものである。そして第二次大戦の神風特攻隊敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊といいう部隊名も宣長の歌にちなんでつけられた。

宣長日記には日常と周辺の動静が記録されている。
 日々の天候、社寺参詣の事、身辺の冠婚葬祭、歌会、講義、会読、自己及び家族近親の往来、旅行、病気、書簡の往来、町内の些事、出産等の慶事の記録。幕府・藩侯からのお触れ、天変地異、火事、寺院の開帳、芝居の興行。皇室をはじめ、幕府・藩の高官の動向、大坂・江戸・京都の様子、参宮などの往来。毎年の記載の終わりには米価の相場も記録していた。

宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新尊皇攘夷運動の原動力となっていく。

本居宣長(1730-1801年)は、35歳の時に着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。

日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。

宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。
多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。近所や親戚との付き合いをそつなくこなし、支出を省く。そうやって時間を捻出し、金をつくり書物を買い、そして学問の道に励んだ。学問する環境をいかに整えていったか、そして日常生活をいかに効率的に過ごすかというマニュアルが膨大に残っている。

「されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止(や)むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくずるるは、学問に大にきらふ事ずかし」
(自分には才能がない、学問を始めたのが遅い、勉強する時間がないからといって、学ぶことを怠ってはいけない。如何なる場合も諦めず努力しさえすれば、目的は達し得るものであることを知るべきである。道半ばで挫折をしてしまうことが、学問の神様の最も嫌うところである)

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。

養子の太平が描いた図が残っている。「恩頼図」といって、自分の学問にあたって恩を受けた人々と、自分を通してその学問に連なる人々の名前が記録されている。中央に宣長自身と、宣長が著した古事記伝を中心とする著書も配置されている。

三重県の松坂には本居宣長記念館(吉田悦之館長)があり、そこには1万6千点に及ぶ宣長に関する資料が保存されている。今年はこの記念館にも訪れたい。

本居宣長の本分は、学問と和歌にあった。今日は私にとって大切な日だったが、本居宣長のことを書くことになったのも何かの思し召しだろう。