野田一夫先生のハガキ通信「ラポール」(週刊)の75歳から90歳までの記録を読み終わった。

野田一夫先生が毎週書いていたハガキ通信「ラポール」は、多い時には友人1000人に出していたという独特のコミュニケーション媒体である。

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1985年10月1日の58歳から、ニュービジネス協議会理事長となることを機会に創刊し、1986年に理事長を退くまで64号を発刊。

1987年に多摩大学の設置責任者を引き受けその年末から1989年の開学まで72号、初代学長就任から6年での引退まで156回。この期間は60歳からで「TIMIS」というタイトルだった。

1994年11月1日の67歳からは各界の友人に向け再開。1997年からの宮城大学初代学長時代、2008年の多摩大学学長代行、2012年からの事業構想大学院大学初代学長時代を経て、2014年2月25日の第913号以降はホームページで掲載するスタイルとなり、2017年7月6日の90歳の第971号「予想外の卒寿の宴」で終わっている。

以上、野田先生の58歳から90歳までのハガキ通信は3期に分けられる。このうち、1997年の宮城大学初代学長時代以降は、私も読んでいる。

ここ数日かけて、2003年1月15日の第428号「希わくは惜しまれつつ」から最終号の第971号までの膨大な記録を読み終わった。これは2013年から2017年までの21世紀初頭の貴重な同時代史であり、また野田先生の75歳から90歳までの猛烈でアクティブな晩年の記録である。

(イラストは宮城大学1期生の力丸萌樹君の作品です)

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「名言との対話」 5月11日。萩原朔太郎「幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、それの反対を記憶している人々である」

萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年明治19年)11月1日 - 1942年昭和17年)5月11日)は、日本詩人

2016年に前橋文学館「萩原朔太郎記念館」を訪問した。朔太郎は、15歳で鳳晶子(与謝野晶子)の歌に接し熱病に犯され、「鳳晶子の歌に接してから私は全で熱に犯される人になってしまった。」と述べ、16歳で初めて歌を作っている。「この時から若きウェルテルの煩ひは作歌によって慰められやうに成った」。青年の悩みは、作歌という活動によって昇華されていく。そして詩人になっていく。

朔太郎の年表を眺めると、学校への入学と退学を繰り返しているのが目にとまった。21歳五高(熊本)英文科を落第、22歳六高(岡山)独法科退学、25歳慶応大学予科入学、26歳京都帝大選科受験失敗という経歴をみると、何か世間におさまりきれないものを感じる。父は前橋医師会の会長をつとめるほどの人だったので、こういう生活も許されたのだろうか。

27歳で故郷の前橋に戻って芸術家としての活動を始める。この頃の写真には、ハンサムではるが神経質そうな表情で、トルコ帽をかぶった姿があった。この地を本拠地として、互いに認め合い生涯の友人となった二つ年下の室生犀星、二つ年上の北原白秋、そして山村暮鳥、日夏などの詩人と交わる。

31歳で第一詩集「月に吠える」を出版し世に出る。この頃谷崎潤一郎と会う。33歳で上田稲子と結婚する。この結婚は10年ほど続く。37歳、関東大震災。親戚を見舞いに上京する。39歳、上京し、芥川龍之介室生犀星と往来する。中野重治、堀辰夫。48歳、明治大学文芸科講師。52歳、「日本への回帰」を刊行。この年、大谷美津子と結婚。54歳、透谷賞を受賞。56歳、死去。

1917年の第一詩集「月に吠える」。「詩は言葉以上の言葉である」と代表作「月に吠える」の序で語った朔太郎は、写真、音楽、書物のデザインとマルチアーチストだった。

1923年の「青猫」。「青猫」はブルーな、ゆううつな色調でおおわれており、生の無為、倦怠が一貫したテーマであり、ニイチェやシーペンハウエルの思想の影響を受けている。この二つの作品で、口語自由詩を完成させ、後の詩人に多大な影響を与えた。朔太郎は大正時代近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称されている。

日本詩界の潮流を根本から覆したと言われる「月に吠える」は、発行人は室生犀星、序文は北原白秋である。序文で白秋は「何と言っても、私は君を敬愛する。さうして室生を」から始まる。白秋は朔太郎より2つ上で、朔太郎は犀星より2つ上であり、この3人は互いを評価しあっていた。朔太郎は「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」と述べている。

高村光太郎は、「この詩人の詩は、ああ蒼く、深く、又すさまじく、美しく、日本語の能力を誰も予期しなかったほど大きくした」と評価している。

詩の目的は、「感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と朔太郎は言っている。「どんなに真面目な仕事をしていても、遊戯に熱している為時ほどには人を真面目にし得ない」という朔太郎の故郷の前橋での生活を記念館で眺めると、写真、音楽、書物のデザインとマルチアーチストだった。やはり、一筋に修行するというタイプではなかったようだ。

ふらんすに行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。、、で始まる有名な「旅上」は、萩原朔太郎の作品だったことを知った。

「詩は何より音楽でなければならない」という朔太郎は、マンドリンを演奏する。前橋で活動したクラブは、群馬交響楽団の前身である。アマチュアカメラマンとしても相当の工夫をする腕前だった。朔太郎の写真の対象は、第一の弟子であった三好達治によれば「要するに、例外なく、その夥しいコレクションは、いづれもごたごたとした人混みの、市井のつまらぬ風景だった」のである。朔太郎は自然の景色には全く興味がなかった。

朔太郎は、書物の装幀とデザインに凝り、自身も手掛けている。「装飾とは内容の映像」という考えの朔太郎は、自身唯一の小説「猫町」のデザインを自著のもっとも気に入っている。煉瓦の壁に「Barber」という文字と「猫の顔」が描かれた面白いデザインである。この本には、「装飾案・萩原朔太郎 画・川上澄生」となっているから、案を自分でデザインし、それを画家に描いてもらったのだろう

第一詩集で代表作なった「月に吠える」でも、独特の幻想的なデザインで、詩と画とが一体となって美しく、書物としても近代詩の世界でも画期的な詩集だった。「美しい詩画集を出したい」と装飾を依頼した恩地孝四郎にあてた書簡でも語っている。恩地と田中恭吉と三人の芸術的共同事業でありたいと願った朔太郎は、「実に私は自分の求めている心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである」と書き記している。

それでは、萩原朔太郎にとって「詩」とは何か。詩の目的は、「感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と言っている。

前橋文学館が編集した「萩原朔太郎室生犀星の交流」という小冊子を読むと、二人の飾らない交流がわかる。
「萩原と遊ぶとセンチメンタルといふ言葉を常に新しく感ずるとは不思議なり」(再生)。「犀星といふ男は真に不思議な恵まれた男であり、生まれながら文学の神様に寵愛されたやうな人間である」(朔太郎)

室生犀星は「善良で好人物である正直者はいつも人生で損ばかりしているといふことも、この詩人の生涯を見渡していると判って来るのだ。」と語っている。ここには、神経質で気難しい朔太郎の姿はない。

「幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、それの反対を記憶している人々である」。幸福か不幸かは、客観的に推し量れるものではない。性格というか、心の持ち方というか、そういう主観に大きく左右される。つまり下から登っていって来し方を眺めその高さに満足するか、なかなか行き着かない頂上との距離に不満を抱え嘆息するかという態度にかかっている。朔太郎は幸福であったか。