神保町のシェア書店巡り「PASSAGE」「猫の本棚」(人生100年書店)「ネオ書店@ワンダー店」。樋口裕一さんと昼食。

池袋の「うな鐵」で樋口裕一さんと私たち夫婦で食事。

元気そうで安心した。

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神保町のシェア書店「PAASAAGE」。3階のコーヒーショップ。

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シェア書店「猫の本棚」の私の「人生100年書店」に橘川さんの新刊『メディアがなにをしたか?』を2冊を入れる。
オーナーの橋口さんと。
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久恒啓一人生100年書店」

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ネト書店@ワンダー店

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橘川さんの本棚。
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「名言との対話」5月12日。秋田雨雀「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたい」

秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年明治16年)1月30日 - 1962年昭和37年)5月12日)は、日本劇作家詩人童話作家小説家社会運動家である。

私は2015年に青森で開催された東北地区高校進路指導協議会研究大会に招かれ、「キャリア教育」について講演したことがある。その後、黒石の秋田雨雀記念館を訪問した。

少年時代に病弱であったため自分を卑下する気持ちで雨雀と呼んでいたが、それが後のペンネームになった。小学校の同級生に生涯の友人でありライバルであった口語歌人の鳴海要吉がいる。雨雀は、早稲田に進学する。1907年に小説『同性の愛』というタイトルの処女作を発表し注目を浴びる。その後、戯曲、小説、詩、童話、随筆、評論等を手がけた。また、新劇運動やエスペラント運動などにものめり込んだ。
戦争賛美者を批判し、1927年にはソ連から国賓として招かれている。その後、日ソ文化協会や極東平和の会等の設立にも努力をしている。
代表作の「みつばちの子の巣立つ朝」の作詞は秋田雨雀であり作曲は山田耕作である。
当時の友人達との手紙のやり取りを見ることができた。高村光太郎山田五十鈴、など著名な人たちとの交流を伺い知ることができた。

国際語エスペラントについての掲示があった。エスペラントとは「希望の人」という意味である。19世紀末にユダヤ人のラサロ・ザメンホフという人物によって考案された人造語だ。彼は人種の入りくんだリトアニアで生まれている。世界を1つの言葉で結びたいという希望を持って作った。1906年には日本エスペラント協会が発足している。
雨雀は「平和の戦士として全世界の人々の中に入り真の民主主義確立と理想実現のため行動すべきだ」という言葉も述べている。

著作類が並んでいた。『秋田雨雀日記』。『50年生活年譜』。『あかつきへの旅50年自伝記録』。句歌集の『不死鳥』、、、。「みつばちの 巣ばこに われは耳あてて はるかにもきく 春のおとずれ」「ひとさしを わが手のひらに  おしあてて 文字を教えし 父のなつかし」「手を拡げて 小さな実をこぼす 初霰」、、。、

1932年の生誕50年祝賀会では「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたい」と述べている。65歳では、舞台芸術学院の院長に就任。68歳になった時、日本児童文学者協会の二代目の会長に推されている。初代は、小川未明であった。1960年、77歳では黒石市の名誉市民に選ばれている。

私が訪ねた当時は、材料は豊富だったが、なにか雑然とした展示だったという記憶がある。 2019年に黒石・秋田雨雀記念館のリニュアルのニュースが耳に入った。雨雀という存在は、黒石市青森県の貴重な財産となったのだろう。

雨雀の活動をながめると、俳句、短歌、小説、詩、戯曲、随筆、評論、童謡、演劇、平和運動エスペラント運動、、、と多彩である。雨雀はあらゆることに興味があり、どの分野にも才能があり、そして並外れたエネルギーの持ち主であったという感を深くする。その基軸は「良心的存在として生きる」だったとすれば、才能にまかせた取り散らかした人生ではなく、終始一貫した生涯であったといえるだろう。