事務。昭和。ラジオ。読書。記念館。母親。

以下、まとめる必要のあるもの。

午後:立川のオステオパシーで体を整える。体のリセットが完了。

後姿探検隊。

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「名言との対話」6月1日。杉田玄白「一に泰平に生まれたること。二に都下に長じたること。三に貴賎に交わりたること。四に長寿を保ちたること。五に有禄を食んだること。六にいまだ貧を全くせざること。七に四海に名たること。八に子孫の多きこと。九に老いてますます壮なること」

杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日1733年10月20日) – 文化14年4月17日1817年6月1日))は、江戸時代蘭学医若狭国小浜藩医。

前野良沢杉田玄白らは、江戸の中津藩中屋敷の良沢の住まいで「ターヘル・ナトミア」の翻訳を行い4年後の1774年に「解体新書」として刊行した。2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。1.野口英世 2.湯川秀樹 3.平賀源内 4.杉田玄白 5.北里柴三郎6.中谷宇吉郎 7.華岡青洲 8.南方熊楠 9.江崎レオナ10.利根川進だった。玄白は野口英世湯川秀樹、平賀源内に続き、堂々の4位であった。それはこの『解体新書』の訳出によっている

吉村昭『冬の鷹』を読んだ。「解体新書」成立の過程を克明な調査で再現した労作である。主人公は豊前中津藩の藩医前野良沢。もう1人は杉田玄白。そして平賀源内高山彦九郎が脇役として登場する。ターヘル・アナトミアという蘭書の翻訳という医学史上の偉業を、盟主として実現した前野良沢の名前は、「解体新書」の譯者にはない。その謎が解き明かされる伝記である。

かたくなに主義にこだわる良沢、たくみにプロジェクトを実現させていく10歳下の玄白。良沢は81歳で娘の嫁ぎ先で死を迎え、玄白85歳での長寿での穏やかな死であった。性格タイプのエニアグラムでみると、良沢は観察者、玄白は成功を目指す人だと思う。それぞれの性格にふさわしい人生を送ったのだ。

玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、江戸一番の上手といわれた。晩年には小浜藩から加増を受けて400石という大身に達している。83歳の時には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊されている。84歳では「耄耋(ぼうてつ)独語」(老いぼれのひとり言)を冷静な観察で書いている。今でも、進歩的な取り組みや研究面で功績顕著な人や団体を対象としている小浜市主催の杉田玄白賞がある。前野良沢の出身地の中津市の、私もよく知っている川嶌眞人医師も第7回の受賞をしている。

「己れ上手と思わば、はや下手になるの兆しとしるべし」

「われより古(はじめ)をなす」

冒頭に掲げた「九幸」が玄白の人生観だった。太平の世、天下の中心で成長、広い交友、長寿、安定した俸禄、貧しくない、名を知られた、子や孫が多い、壮健。それらをすべて得た玄白は晩年には自ら九幸翁と号していた。この玄白の幸福論は参考になる。