『AI 2041 人工知能が変える20年後の未来』ーー「スタートレック」の世界

カイフー・リー、チェン・チウファン著『AI 2041 人工知能が帰る20年後の未来』(文芸春秋)を読了。

2022年12月10日発行。アメリカの主要ジャーナル、新聞などで「年間ベストブック」の3冠を達成した本。

内容は短編小説とテクノロジーの解説が10章並ぶという構成。その中から、「教育」にかかわる部分を抜き出してみよう。

  • 人間の教師の役割は生徒を人間的に指導することとAI環境をコントロールすることになる。(教師には人間力の高さが求められる)
  • AIが苦手なのは創造性、共感、器用さ。人間の教師は共感力のある精神的指導者になる。グループ実習、個別のカウンセリングが仕事になる。(講義ではなくゼミ中心。教師には心の豊かさが求められる)
  • 参考にすべきは、北欧の初等教育、韓国の英才教育、アメリカの大学教育。(日本については「おもてなし」しかあげられていない)

生活コストはゼロになり、仕事はしたい人だけがする。持続可能な職業に就き豊かな人生を築くという生き方が消える。(貴族社会の到来)

「意識」のあるAIはつくれない。意識のメカニズムも解明されていない。(人間とは何かが問われてくる。仏教の唯識論の深掘り)

汎用AIの登場というシンギュラリティは20年後には無理。宇宙という新世界の探検によって、人類が自己実現していく「スタートレック」の世界になる。(探検の精神でいこう)

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「名言との対話」6月5日。鳥潟右一「大きな着眼、粘り強い研究、丹念な記録」

鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 1923年6月5)は、日本工学者。

大分中学から東京開成中学に転校。一高を卒業。東大電気工学学科に入学し首席で卒業し、恩賜の金時計をもらう。逓信省技手となる、英米留学。29歳、TKY式無線電話機を発明、世界で初めて無線に音声を載せた。1915年、東京上海間の無線通信に成功し世界的に有名になった。33歳、工学博士。38歳、逓信省電気試験所長。没は41歳。

当初、宇一と命名されたが、父が後に右一と変えている。「ういち」という呼び方は同じだ。「何でも一番になれ」という意味だ。

鳥潟家は慶長年間の160年代初めから続く旧家であり、花岡村の肝煎の家である。鳥潟会館は、京風の近代和風建築で回遊式日本庭園(8191ヘーベ)がある。18世紀半ばに建築され、1936年から5年かけて増改築と庭園の拡張が行われた。1000人を超える京都の大工、左官、造園師を使った大事業である。後に花岡町に寄贈された。

鳥潟右一以外の鳥潟家の輩出した人材をあげてみよう。

鳥潟恒吉(1855-1914年)・鳥潟サイ(1862-1943年)。恒吉は花岡生まれ。東大医学部二期卒業生。初代大分県立病院長を務め、大分県の医療の近代化、医師・看護婦の養成に貢献した。隆三・右一等甥たちを大分に呼び英才教育した。その後、サイ夫人が彼らを引率して上京し、東京の開成中学、旧制一高に通わせた。

鳥潟隆三(1877-1952年)。日本の外科医学界の発展に貢献。京都帝国大学名誉教授、医学博士。函館生まれ。同郷の狩野亨吉の勧めで京都帝国大学京都医科大学に進学、恩賜の銀時計を授与され卒業した。ベルリン大学に留学。血清細菌学を研究し、イムペジン学説を提唱。コクチゲン(鳥潟軟膏)創製の功績によりノーベル医学賞候補となったが惜しくも受賞は逃した。日本外科医学学会会長を2期務めた。

鳥潟小三吉(1842-1909年)。世界で活躍した国際的軽業師。花岡生まれ。1866年外国の曲馬団に誘われ、他の芸人とともに英国に渡った。その後「鳥潟小三吉一座」を結成、欧州各地を巡業した。ドイツ人の妻フハンネエも一座で活躍した。ドイツでは皇帝に招かれ宮廷で妙技を披露、喝采を博し記念メダルを賜った。晩年は花岡(現鳥潟会館駐車場)に豪華な洋館を建てて暮らした。享年63。妻のフンネエは39歳で没。

2017年に秋田県大館を旅行したとき、鳥潟会館を訪問する機会があった。佐々木こうじさん(市会議員)の案内で大館を堪能した。一日まわっただけだが、この大館は、歴史と人物の街だと感じた。単独の歴史資源をきちんと説明し、時代順に巡る歴史・人物ツーリズムはいいと思う。歴史観光資源の宝庫だ。大館は人材を輩出するまちである。狩野享吉(一高校長)、石田博英(労働大臣)、竹村吉右衛門安田生命社長)、村木清一郎(「訳万葉」)、横山助成貴族院議員)、山田定治(鶏博士)、小林多喜二(小説家)、、、。

その中でも、鳥潟家の人材輩出力は群を抜いている。DNAもあるだろうが、一族の教育にかける意気込みの強さを感じる。その代表格の一人が鳥潟右一である。「一番になれ」と期待された右一は41歳で夭折するが、名前の通り、素晴らしい業績を残した。鳥潟右一は、後輩たちに、「着眼点を大きく持て。研究放棄するな。失敗するまでやれ。研究実験過記録は明細に」と指導していた。それが鳥潟右一のやり方だった。私なりに、「大きな着眼、粘り強い研究、丹念な記録」とまとめてみよう。

亡くなったのは1923年6月5日と6日の2説があるが、ここでは5日説をとる。本日は鳥潟右一の没後100年に当たる日だ。調べてみると、アマチュア無線有志による「無線の父・鳥潟右一没後100周年記念事業」として記念講演会が大館郷土博物館主催の企画があるようだ。鳥潟右一は、「無線の父」として生きつづけるであろう。