フランソワーズ・ジローが101歳で亡くなったーー女性を不幸にしたピカソに一矢を報いた唯一の女性

フランソワーズ・ジロー(抽象画家)が亡くなったというニュースを聞いた。101歳だった。常に恋の勝利者であったピカソを捨てた唯一の女性である。 40歳年下のジローだけはかろうじてピカソに一矢を報いてピカソの人となりをさらけだす書籍『ピカソとの日々』を出版し、ベストセラーになっている。ジローはピカソとの間に2児を設けている。ピカソが自らの神話を守るため、出版を妨害したこの本を読みたいと思ったが、手に入らなかった。

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ピカソの女性遍歴は壮絶だった。付き合っていた女性が変わるごとに新しい画風が生まれている。しかしピカソの周りの女性は皆不幸になった。オルガ(ロシア貴族の末裔)は精神に異常をきたし、マリー・テレーズ(従順な協力者)はピカソとの子どもを産みながら生涯日陰のまま、やがてピカソの後を追って自殺。ドラ・マール(才色兼備の写真家)は「泣く女」に変えられ、精神衰弱に陥ったと伝えれている。娘のマリーナも精神科の医の助を借りてようやく生き延びてる。ピカソの親族だけでも自殺者は3人も出ている。

ピカソにかかわった女性はみな翻弄されるが、フランソワーズ・ジロー(40歳年下)だけはかろうじてピカソの人となりや日常をを描き出した書籍を1964年に出版したのだ。

ピカソは「女性は2種類しかいない。女神か、ドアマットか、そのどちらかのタイプしかいない」とジローに語っている。女性たちは女神としてピカソの芸術に気を吹き込むが、それが終わるとドアマットにみなされる。その連鎖から10年で逃げ出したのが、ジローであった。『ピカソとの日々』は読みたい。

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「名言との対話」6月8日。松本竣介「画家は作者の腹の底まで沁みこんだものしか描くことはできない」

松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日[1]は、日本洋画家。享年36。

東京渋谷生まれ。2歳から岩手県花巻、10歳で盛岡。盛岡中学入学時に聴力を失う。中学3年で中退し上京。太平洋美術学校時代を経て、生長の家創始者の谷口雅治の『生命の藝術』の編集部に入る。1935年、二科展に入選。1936年から約2年間、創刊した雑誌『雑記帳』を編集。1940年、二科展で特待をうける。

1941年、『みづゑ』の軍人たちの座談会「国防国家と美術ーー画家は何をなすべきか」への反論として「生きてゐる画家」を発表し、画家としての精神の自立を説いた。

1943年、中津出身の糸園和三郎らと「新人画会」を結成。戦後派雑誌の表紙や、書籍のカットなどを手がけた。1948年、パリ移住を企図するが、結核を患い死去する。

2012年に宮城県美術館で開催中の「松本竣介展」を観た。13歳の時に流行性脳脊髄炎で聴覚を失う。そのことがきっかけで油絵を描くようになり、画家になることを決意する。この人のモンタージュ手法は、雑多なものを配置して雰囲気を出すという方法で、街などの様子を象徴的に描き出すのが見事だ。

日中戦争など軍部が台頭した時代。国策に応じて思想感情を表現せよという意向に対して反論した「生きてゐる画家」という論考で戦後評価が高くなる。「画家の像」という、避けようと斜めに座る妻の横顔と、怯えて隠れながら怯えた片目で対象を見ている女の子、そしてその傍にまっすぐに立っている若い画家という構図の絵が印象に残った。

群馬県桐生市の大川美術館に松本竣介資料室がある。ダイエー副社長、マルエツ社長をつとめた大川栄二(1924-2008)が、美術コレクションをはじめるきっかけとなったのが松本竣介の作品だった。その後、40年あまりをかけて収集した作品をもとに大川美術館は、1989年に開館。この資料室では、松本竣介作品(油彩画18点、水彩素描50点)を中心に、関連した資料、情報が存在している。

2023年6月現在「松本竣介のアトリエ再現」展を開催中だ。「五歳になる子息の莞ちゃんが無邪気に走り寄って、私の隣に腰かけて父の仕事ぶりを利発な瞳でじっと見つめていた」竣介 が語っている息子の松本莞さんが監修した企画展だ。勉強家で蔵書が多かったのは、聴覚を失い、中学も中退したこともあり、莞さんは「必然的に活字に頼って自分の知識を蓄え、何とか人に伍してやっていこうとした証(あかし)の一つではないか」とも語っている。(アート記者・高野清美)

2022年には「生誕110年 松本竣介」展が、神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で開催されている。いまだに人気があり、こういう企画展が各地で催されている。

松本竣介は理知的な作品が多いが、代表作は「立てる像」、絶筆は「建物」であった。「生きてゐる画家」で、画家は「作者の腹の底まで沁みこんだもの」しか描くことはできないと主張した。翌年に描かれた、大地を踏みしめて立つ「立てる像」は、この考えをあらわしたものだと考えることができる。

与謝野晶子が1940年に明星に発表した「君しにたもうことなかれは「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為」であり、世を害する思想などと批判を受けた。「私が『君死にたまふことなかれ』と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」(以下略)、、 「まことの心をうたはぬ歌に、何のねうちか候べき」。最後のこの一行はとどめの一撃である。

戦時体制に迎合する、或いは沈黙する芸術家が多かったが、こういう画家や、歌人がいたのである。

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