南アルプス市立美術館で「名取春仙」の絵をみた。「生誕130年 名取春仙展」という図録を購入して読み終わった。これは2016年に刊行されている。「冒頭の「ごあいさつ」は南アルプス市長の金丸一元とあった。
2017年 の多摩大学主催シルバー・デモクラシー企画第三弾「山梨ぶどうX講座」で、私も5分ほど石橋湛山を解説したこがある。 南アルプス市中央図書館の「ふるさと人物室」で石橋湛山を学ぶという企画だった。2年落第で大島校長の薫陶。同級生に早川徳次(東京メトロ)、中村星湖(文学者)。書斎にクラーク博士の肖像。早大学部首席(哲学)、中村は英文科首席。特待生。1940年8月25日「日本の未来は明るい。科学立国」。湛山は初の衆院選で落選するも大蔵大臣。石田博英と松永安左エ門。「わが5つの誓」。途中で、金丸一元市長の挨拶があり、名刺交換したことある。その人だった。
名取春仙(1886-1960)。幼少期には河鍋暁斎、月岡芳年などの影響を受ける。小学校時代には川端龍子、奥村土牛と同窓だった。
- 日本画では早くから才能を現し、31歳では再興日本美術院の院友に推挙されている。「南洋探検」「再挙」。紀元時代から、明治大正、現代(昭和)までの婚礼衣装を描いた16枚の画帳もある。
- 木版画による新版画を志した渡邉庄三郎(1885-1962)の新・版画運動に、伊東深水(1898‐1972)、川瀬巴水(1883 - 1957 )とともに参加した。大正新版画役者絵の担い手として多くの作品を残した。六代目尾上菊五郎、二代目市川猿之助、沢村正二郎、大河内伝次郎、水谷八重子、、、、。
- 挿絵画家としての活躍は見逃せない。1909年に入社した東京朝日新聞では夏目漱石の最初の小説『虞美人草』、二葉亭四迷『平凡』、島崎藤村『春』、漱石『三四郎』、森田草平『煤煙』(挿絵の革命!)などの挿絵で評判をとった。泉鏡花、永井荷風、徳田秋声、谷崎潤一郎、田山花袋、正宗白鳥の挿絵も担当した売れっ子だった。「挿絵というものはどうかすると読者のイルージョンを扶けるよりも却ってそれを壊すような結果になり易い、読者のそれだからなるべく簡単に一章の感じ、一句の印象を捉えて描くといったようにしている」。「ザっと30年、幾度か殻を砕き淀みを流して、個性に不断の新鮮さを念願としてきたつもりですが、更に蝉脱の時に辿り着いたことを自覚しつつ、漸く会心の風格を獲られさうな昨今でした」と述懐している。大作家の女房役としての自覚である。
江戸っ子という意識が強かったが、晩年は「故郷は山梨」だと語るようになった。
1958年に愛娘・良子が肺炎のため急逝。1960年、良子の墓前で夫婦で服毒自殺。
1991年、町立春仙美術館が開館。
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「名言との対話」7月7日。板東妻三郎「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」
坂東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年(明治34年)12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。
1925年(大正14年)に全国の熱狂的なファンに応え、「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都に設立。勉強のために今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。11年後に解散。その後、日活、大映、松竹へ。
端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「坂妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。ダイナミックな立ち回りで人気を博し「剣戟王」の異名をとった銀幕の大スターで、大正末期から昭和初期にかけて剣戟ブームを生み出した。坂妻(坂東妻三郎)、千恵蔵(片岡)、右太衛門(市川)、アラカン(嵐寛寿郎)は「四大スタア」と呼ばれていた。
「サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と言われたが、死後35年を経た1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という書の中の投票では「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。その11年後の2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位、「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。いかに人気が高かったか、そして持続していたかがわかる。
「阪妻が一代の剣豪スタアとして絶大な人気を博したのは、眇目に構えた独特のポーズにあった。それは青眼でない眇目(すがめ)の阪妻が見事に表現したからであろう。このように人生論的意味を身を持って表すことのできる俳優にして、はじめてスタアの座を確保できるのだ 」(林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎)
1943年(昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉(本名)に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまったという豪快なエピソードも残っている。
冒頭の言葉は、映画『地獄の蟲』に出演するにあたって、述べた言葉である。「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」という環歌子の証言もある。坂妻は人生においても俳優としても真剣勝負の人であった。