東京女子医大を創立した吉岡彌生の生誕の地:掛川に立つ記念館と実家の医院跡を5月24日に訪問した。
生涯を「志」「翔」「愛」にわけて展示されている。
座右の銘は「至誠一貫」。そのとおりの不屈の生涯だった。
「大正評判女番付」が展示されていた。記念館では、文壇の酒豪の番付や文豪の執筆量料の番付などを見たことがある。今度は女の番付だ。
横綱は広岡浅子(銀行家)と峰島きよ(質商)。張出横綱は矢島楫子。吉岡弥生(女医)は安井哲子(教育家)と並んで大関となっている。三浦環(音楽家)と川上貞奴(女優)が関脇。下田歌子(校長)と棚橋洵子(校長)が小結。前頭で名前を知っているのは、九條武子(美人)、野上弥生子(文学者)、松井須磨子(女優)、嘉悦孝子(教育家)、田村俊子(文士)、伊藤野枝、鳩山春子(交際家)、中條百合子(小説家)。
実家の医院跡。
購入した『吉岡弥生伝』。
「阿弥陀如来」「震災の思い出」「わが指導者原理」「あとがき」を読みながら帰る。古稀のお祝いの記念に刊行した本。執筆者は福沢諭吉、伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一に並ぶ女傑だとしている。婦人界の指導権を、門閥なき婦人、生活する婦人の手に取り戻したと評価している。
「わが指導者原理」
- 校長、院長として500人を統率するには骨が折れる。万事自分の責任においててきぱき事を運ぶ。できるだけ会合に顔を出し空気を感じる。各所からあがってくる毎日の報告を寝床に入る前に1時間かけて読む。所内の雑誌に日記風の近況随筆を書く。地方公演では卒業生が集まり大騒ぎ、こええは教育者のみが味わえる喜びだ。
- ドイツが外遊に際して引退を宣言。同時に余生を女医の要請と社会教育、婦人教育に捧げる決心を声明。
「伝」の中で関東大震災の時のことが出てくる。「私はめそめそ泣くには嫌いな性質」「今までの二倍働かねばならないと決心いたしました」「生まれつき物ごとを楽観する人間」とある。先日書いた「林芙美子」のそうだが、「楽観的、楽天的」と自覚している。道なき道を切り拓く逞しさは共通している。
記念館の図録から。
「婦人が職業を持ち、社会で活動できれば、広い知識を得るのでありますから、男子にとって真の好伴侶になることは当然でありましょう」
吉岡弥生は「至誠一貫」を座右の銘とした。似た人に北里柴三郎がいる。こちらは「終始一貫」だった。どちらも「一貫の人」である。
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橘川・田原とミーティング。それをうけて、6月14日午後の京都の「ミニ蜃気楼」の話のテーマは「人生計画(ライフプラン)の実際」とした。
- あなたは、「人生計画」(ライフプラン)を持って生きていますか? 講師は47歳までの「青年期」のビジネスマン時代を経て、「壮年期」は教育者、そして「実年期」の現在は「」として、充実した人生を送っています。 ビジネスマン時代は、「公人」としての本業と「個人」としてのライフワークを両立させるという微妙なかじ取りが必要な「二刀流人生」を送ってきました。 30歳で「一生の計画」、40歳で「30年計画」を立て、毎年の年初に立てた「計画」を実践し、年末に〇×△で総括し、次の正月に計画を立てる。このサイクルを40年以上にわたり続けてきました。マル秘であった30歳から47歳までの驚愕のライフプランとそのノウハウを公開します。 ライフプランは立てた方がいいことは分かっているが、どう作ったらいいかわからない。そんなあなたにライフプランを持つことの大事さと、血と涙の匂いのする具体的なやり方の実践例を提供します。 あなたの人生は一変する可能性があります。お見逃しなく!。
力丸君と「アクティブ・シニア革命」の編集の件で相談。近藤さんと記事の修正作業。
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「名言との対話」5月31日。杉本苑子「歴史の中で声もなく、うずもれた人たちの声が無数にある。その声が耳にそこに鳴ってくる」
杉本 苑子(すぎもと そのこ、1925年6月26日 - 2017年5月31日)は、日本の小説家、歴史小説家。
文化学院卒。1952年に「燐の譜」で『サンデー毎日』の懸賞小説に入選した時の選考委員であった吉川英治に師事し、門下生として10年修行した後に、1963年「孤愁の岸」で直木賞。古代から近代までを題材としたおおくの歴史小説を発表。1978年「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞、1986年「穢土荘厳」で女流文学賞。1995年文化功労者。2002年文化勲章。作品はほかに「玉川兄弟」「埋(うず)み火」などがある。「マダム貞奴」「冥府回廊」は85年のNHK大河ドラマ「春の波濤」の原作となった。
杉本苑子が住んだ熱海は東京とは気温が3度違い過ごしやすい、海と山に囲まれて自然が素晴らしい、東京との距離が近い、という条件が揃っており、昔から文人、政治家、軍人などが住んできた場所である。澤田政廣記念美術館、中山晋平記念館、佐々木信綱「凌寒荘」、そして2005年に訪ねた杉本苑子旧宅「彩苑」がある。別荘として建て、その後ここに15年間住み、後に熱海市内の新居に住んだ。いずれ杉本苑子はこの旧宅を記念館とするつもりだった。現在、熱海市が借り受けて熱海にゆかりのある,文化人の人々の紹介と作品展示をしている。
文藝春秋特別版2006年8月臨時増刊号に「代表的日本人100人を選ぶ」という特別企画がある。1908年の内村鑑三「代表的日本人」に範をとったものだが、そこでは「わが国民の長所を外の世界に知らせる」ために、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人をあげていた。百年後の今回は、選者は杉本苑子、藤原正彦、半藤一利、松本健一の4人。日本人が理想とする人間像、美しき生き方を示すことが目的である。9つのジャンルの中で選ばれた100人が紹介されている。こういう人たちの足跡を訪ねてみたいと思ったことがある。
2006年に宮城県松島の藤田恭平美術館を訪問したとき、81歳で文化勲章を受章したときの写真があった。国際経済学者の小宮隆太郎、映画の進藤兼人、航空宇宙工学の近藤次郎、質量分析学の田中耕一らと並んで小説の杉本苑子がいた。各地の記念館で文化勲章受賞時の記念写真を見ることが多いが、同時代の各界の逸材を横並びに見ることができて、いつも興味深く見ている。
2016年に杉本苑子「万葉の妻たち娘たち」というタイトルの講演を収録したオーディブルの講演を聴いた。文藝春秋社の文化講演会での講演録で1時間弱の中身の濃い講演だ。天皇・貴族・庶民・奴隷まで、あらゆる層の人々が本音を吐露する万葉集の歌は現代人の胸を打つ。杉本はその中で万葉時代の女性について語っている。女性の地位の高さを語ったところが印象に残っている。
「憂いはひとときうれしきも思い醒ませば夢候よ」は、室町時代後期の歌謡集「閑吟集」の中の一節で、杉本苑子が好んだ。人生の辛さも、嬉しいことも、ほんの一時のことだ。そういう思いが醒めてみれば、夢のようだ。歴史に題材をとって、そこに生きた人々の人生の盛衰と喜怒哀楽を描いた杉本苑子の人生観がこれに極まったのであろう。
NHKアーカイブスの映像をみた。昭和18年の学徒出陣の壮行会の場にいたという。「この巨大な消耗、巨大な損失、巨大な犠牲を払いながら、何を得たのか。家を焼かれ、肉親を原爆の一瞬で地獄に落とされ殺される。そういった大きな犠牲を払った事、これを足掛かりに再出発する」それが歴史小説を書く根底にある。「歴史の中で声もなく、うずもれた人たちの声が無数にある。その声が耳にそこに鳴ってくる」と結んでいた。
戦後をつくってきた日本人はそれぞれ同じような気持ちで、祖国の復興と生活の再建に向かったのだろう。