『いざ100歳日記』(柳田邦男)

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今日の収穫

  • 柳田邦男(88歳)の『いざ100歳日記』「事態を立体的に構築したりして、『事実』に近づくしかない」(90歳が2年半後に迫っているけれど、そんな目先のことでは視野が狭くなるから、大胆に100歳を目指して一日一日をしっかりと生き、その証(あかし)として、今年(2023年)の誕生日から日記を書き始めているんですーー2023年6月9日)
  • 「虎に翼」:高等文官司法試験の女性初の合格者。三淵嘉子は横浜家庭裁判所所長。久米愛は日本婦人法律家協会を設立。中田正子は日弁連初の女性理事。女性弁護士の割合は2割超(2023年)
  • 小澤征爾「悪いんだけどさ、癌になっちゃったみたい」
  • 吉永小百合「私にとっては、日活撮影所が『学校』でした」
  • 北方謙三「書くことが生きること、生きることが書くことですよ」
  • 佐藤優「社会革命、政治革命が流行していた時代に、まず人間が変わることが重要だという創価学会の価値観(人間革命)」
  • 梯久美子「冷静さと熱の両方を備えていることが、ノンフィクションとしての評伝の醍醐味だ」
  • 保坂正康「次期首相 七つの条件」:真正保守小日本主義。大衆性。歴史に学ぶ姿勢。人間性と人格。敬意をもたれる。豊かな思考力」
  • 仲野徹「座右の銘は自分宛」
  • 唐十郎「芝居は博打ですよ。移動しながら自分を試していくんです」
  • フジコ・ヘミング「機械じゃないもの、間違いくらいするわ」

以上、『文藝春秋』7月号などから。

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「名言との対話」6月22日。野見山暁治「年齢はまるっきり関係ない。これからもずっと絵を描きたい。100歳を越えて」

野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年大正9年12月17日 - 2023年令和5年〉6月22日)は、日本洋画家。享年102。

福岡県飯塚市出身。小さな炭鉱屋の長男。子どもの頃から「絵描き」になりたいと考えており、東京芸大に進学。兵役が決まると和辻哲郎『古寺巡礼』の影響もあり、奈良にを旅行する。

私はこの人との絵の展覧会を観ており、また本も読んでいる。

2014年に、ホテル・ニューオータニ美術館で「野見山暁治展」を観た。毎日、練馬のアトリエで絵を描いている。また、福岡県の糸島にあるアトリエでも過ごしている。23歳で渡仏。12年間をパリで過ごし帰国。47歳、東京芸大助教授。51歳、教授。57歳、「四百字のデッサン」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。79歳、文化功労者。84歳、菊池寛賞。目に触れる作品は公共施設のステンドグラスだ。抽象画のような具象画のような作品だ。2008年に東京メトロ副都心線明治神宮前駅に飾られた「いつかは会える」、2011年にJR博多駅に飾られた「海の向こうから」、2013年に福岡空港国際線ターミナルに飾られた「そらの港」の3点のステンドグラスの原画を中心とした展覧会だった。この画家は当時93歳で、現役として活動中だったことに驚いた。

翌日のNHK日曜美術館は、その野見山暁治の特集だった。「描いていると少しづつ描きたかったものがみえてくる」。「毎日、毎日、これじゃないよな。わからない、何かがある」。「美しい自然の中にある魔性のものをつかまないと」。「常にえい児の如くあれ」。「色はてんでに少し主張しすぎるようだ。形はどんなに虚勢を張っても慎ましやかだ。おのれの限度を知っている」。「男はぼくの絵に戸惑う。、、、女のひとはよく出来たもので、モチーフについてつまらぬ詮索はしない。
「ぼくたちにミューズの神はいるのだろうか。、、、いったいエカキとは何なのか。画面に向かっていることが、取りも直さずその疑問を問いつめていることであり、生涯問いつめてゆくその所業を、そうした人間の在りようをエカキと称んでいいのではないかとぼくは思っている」。「絵描きが「考える」ということは、画面に向かって手を動かすことだ、という気がする」。「ぼくにとって、絵とは心情を吐きだすもの、生身の自分を晒すことだった」。

94歳の野見山と80歳になった横尾忠則との対談が載っている『創造&老年』(SB Creative)』を2021年8月に読んだ。野見山の発言は、「年をとたっという自覚がない」「人間だけが自分の年齢を知っている」「絵の学校に行くのが一番いけない」「頭は空っぽ」「毎日同じ画面に向き合う」「絵を描くことで、元気なエネルギーが自分の中に湧き出る」などだった。

2018年発刊の『のこす言葉 野見山暁治 人はどこまでいけるか』(平凡社)を読んだ。97歳時のエッセイだ。年譜を眺めると、35歳、パリで最初の妻は29歳でガンで亡くしている。50歳で再婚した。見山が80歳の時に75歳の妻をガンで亡くしている。31歳からパリ留学12年。セザンヌグレコに傾倒する。ビュッフェにも傾倒し絵が似てくるので持たないようにした。「自分というものを確立させてから、誰のものでもない、おれの絵だというものを持っていかなければ」と決心する。

「自分が描く絵が、限られた画面のなかに、広い宇宙観を確立していかなきゃ意味がない」。絵描きのオリンピックは、宇宙の奥深いところまで入っていけるか、その競争みたいなものだという。果てしない。どこまでいけるか。それに懸けている。野見山がパリからの帰国後、驚いたのは日本は人工物を含め色にあふれていたことと述懐している。欧州は色感が悪い。逆に日本人の感性は素晴らしいという。

76歳、長野県上田市に「無言館」を開館。野見山は招集で満州の野でソ連軍と対峙した経験をしている。広大な雪景色を広い棺桶のようだっと語っている。戦没学生の遺族を訪ねて彼らの遺作を展示するプロジェクトを始めた。この仕事をやりとげて自身も変わったと自覚している。93歳、文化勲章

野見山暁治は「いくら平和を唱えても、戦争は必ず起こるものだ」という確信があり、「やがて人間は自らつくった原爆で滅びる」と語っている。戦後は束の間の幸福だったという観察だ。

この本の最後は、「自分が絵描きなのではなくて、自分のなかに絵の神様が入りこんで、描かせているんだな」という言葉で終わっている。

本業の絵描きでは文化功労者であり、文化勲章の受賞者であるが、文章の買い手としては日本エッセイスト・クラブ賞の受賞者でもある。「絵も描くのか」と言われたり、「どうして文章のような絵を描かないのか」と言われたりしているのが、おかしい。

「年齢はまるっきり関係ない。これかれもずっと絵を描きたい。100歳を越えて」の言葉通り、102歳まで絵を描き続けたセンテナリアンだった。コロナにやられてたまるかと、「冗談じゃない、描くよ!」とファイトを燃やしている。

パリ留学から帰るにあたって、「自分というものを確立させてから、誰のものでもない、おれの絵だというものを持っていかなければ」と野見山が決心したことに、共感する。私の場合も著作を書き始めて、「図解」という核をつかんだ時、しばらくは本を読まないと決心している。他の人からの影響を受けずに自分の体験と思考からオリジナルを構築しようとした。そういう意味では野見山暁治は同志だと思う。