図解「JAPAN」プロジェクト(図解塾)ーーー「法隆寺」「丼」「陶器」

「図解塾」を開催。冒頭の近況報告では、人手不足が話題になった。あらゆる現場で、人がいなくて、仕事がまわらなくなってきている。

図解「JAPAN」プロジェクトの本日のテーマは、「法隆寺」「丼」「陶芸」の3つ。

「見方や考え方が格段に深まる体験」「新鮮な驚き」「手描きが深く考えることになる」、、。確実に知識が増えていく実感がある。

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま本日は図解塾ありがとうございました。今日は図解「JAPAN」プロジェクトの続きで、『日本を知る105章』の中から「法隆寺」「丼」「陶器」の3つの文章を図解で読み解きました。「法隆寺」では、法隆寺の柱の形状や聖徳太子伝説の背景にギリシャキリスト教などの影響がぼんやりと浮かんでくる話や、それが明治以降の日本の国の在り方(欧米に追いつく中央集権的な国家)としてのイメージと重なり合うところがあるいう見方がとても面白く感じました。確かに明治期以降のお札の肖像画に一番多く使われているのが聖徳太子らしく、なるほどと思いました。ただし真偽はわからない(確証はない)というところも謎めいていて、さらなる興味が湧いてきます。 「丼」ではどんぶり物の発祥とその後の広がりをたどりました。そもそもどんぶり物は文化文政時代の「うな丼」の発明が起源。そのバリエーション第1号が「天丼」。さらに文明開花以降に牛どん、親子丼、カツ丼などバラエティーに富んだどんぶり物が登場し、外食産業の王座となったという話。どんぶり物という「ハードの開発」から、種類を増やす「具のソフト開発」を経て、今や「具の国際化」も進んでいる(プルコギ丼など)という話になり、面白い内容でした。三番目の「陶器」では、日本の焼き物の歴史をを辿りました。日本のもともとの土器やその後の朝鮮半島から渡ってきた須恵器、それがさらに日本らしい陶器に発展していったのがよくわかりました。また「陶磁器」といいますが、陶器と磁器は違うもの。「陶器」は土から、「磁器」は石から作るということも分かりました。加賀藩に伝わった「村雨の壺」、実物が加賀本多博物館にあるとのことで是非見てみたいと思いました。ひとつ一つのテーマについて歴史を辿る視点が面白く、次回もまた楽しみです。
  • 今日もありがとうございました。近況報告でも多くのことを学びました。特に、人手不足の問題。教員の志望者不足とか運転手不足などいろいろ聞いていますが、どの業界も深刻なんだな、と思います。大手メーカーの図解コミュニケーション研修の話からは、図解について全くの初歩からの研修の組み立て方を知りました。今日の「日本を知る105章」からは新たに3つ。「法隆寺」についてえは図解に至るまでの緻密な調査と情報の整理にとにかく驚きました。「厩の皇子」と「キリストの誕生」を結び付けた大胆な説、また、「聖徳太子は実はいなかった」という説があることも知り、新鮮な驚きがありました。近現代では聖徳太子をシンボルとしてあがめることが必要だった、だから長年1万円札に肖像が使われていたことも。いずれにせよ、謎だらけです。 丼については江戸時代に鰻をご飯にのせて蒸したのが起源だということを知りました。そして天丼。文明開化以降はさまざまな具が乗るようになりました。著者の種村季弘氏はこのことにあまりよい印象をいだいていないように思い、別に構わないのではないかという自分の感覚との違いを感じました。陶器について、まず基礎的基本的な「陶器と磁器はどう違うのか」「西洋のたとえばウェッジウッドなどと日本の陶器はどう違うのか」などを知ることができました。日本の陶器は大陸からの由来が「もと」で国内で改良して「すえ」になった。ここをしっかり押さえる必要があるということを学びました。それにしても。一国の価値に値する陶器が存在したとは驚きです。今まで、何気なく知っていたさまざまな物や事も、歴史をよく知ることが大切で、それにより見方や考え方が格段に深まるということを毎回体験できています。
  • 本日もみなさまお疲れ様でした。昨日の久恒先生の講演で、受講生の方から、図解を手書きすると深く考えることになったという感想をもらった。ということでしたが、そのとおりですね。まず手書きすると、自由に単語を並べられ、どんどん整理したくなり、関係性を発見できて面白いです。考えている実感ができますね。『日本を知る105章』今回は、「法隆寺」「丼」「陶器」でした。「法隆寺」は考え抜かれた図解を拝見いたしました。いづれの説も真偽不明!とは。シンボルだったとは。歴史は推理小説のようで面白さが見える図解でした。たくさん調べた後もあって、お疲れ様でした。聖徳太子がやはり鍵ですね。存在していない説があるらしく、学校でならう歴史も動いている、進んでいく感じがいたしました。「丼」は、日本で発生した文化でした。うな丼が丼というハードをつくり、てんぷらとか牛肉とか、ソフトが増えていった。と考えるのは面白かったです。うな丼の次に地位が高いのが天丼とは。みなさん次から次へ丼の名前が出てきて楽しかったです。いろいろ乗せちゃえば、何でも丼になりますね。 「陶器」は、私が担当いたしましたが、元を忘れては末はありえない。という言葉が、あちこちにちりばめられていて、凝った文章でした。この言葉は、この文章にかかるなど、図解することで関係性が解明されていく感じがして図解が面白かったです。また、日本文化は、ほとんど中国や朝鮮から渡って来たものなので、元を海外に取り国風化するところに末がある。という言葉が印象的でした。この105章のまとめをおっしゃってるように思いました。次回からも様々なお題が並びますね。楽しみです。
  • 今日は久しぶりに冒頭から参加することができ、しかも近況の振り返りのトップバッターに指名され、めまぐるしい毎日にどこから離したら良いかわからず思わずフリーズしましたが、なんとか思考を取り戻して公務員や社会福祉専門職の人材不足と高校の友人を偲ぶ会に参加したことを報告しました。先生が研修した企業の研修生による「自己紹介図」を拝見しましたが、男女や職種によっても着目点が違う様々な表現があり、個性がでることを改めて感じました。命日の著名人について竹村健一桂歌丸上田閑照、望月照彦、流政之について先生から解説があり、宗教家から哲学者が生まれており近いところにいることを知りました。桂歌丸竹村健一は子どもの頃テレビで見て知っていましたが、私は文化芸術に関する人について何も知らないと言うことを自覚しました。法隆寺、丼、陶器の三つの図解でした。 法隆寺』は、作者のお休みに入られ不在だったため、皆で図解を見ながら図解を「解読」するという面白い取り組みをしました。厩戸皇子の伝説が後に遣唐使の留学生が持ち帰ったキリスト教聖母マリアの受胎の伝説によるものかも(?)という視点が歴史の年表軸に沿って流れており、「確証はないけど、、、」に集約されている構成がとても興味深かった。『丼』は中央の手書きの図が印象的で、PowerPointで書けなかったとのことでしたが、福祉図解塾で手書きで身体を使って図解を表現するという学びをしたので、図解中の主役が手書きによる図がアクセントになって一層、記憶に残るモノでした。又図解にすることで、まるでメニューを見ているかのような気持ちになり、海鮮丼やビビンバ丼がないと気づき、皆で最後には丼の国際化という結論が出せたのがとても良かったです。『陶器』は、私にとってわかりにくい内容でしたが、陶器と磁器の違い、「スエモノ」と「本を忘れては末はありえない」「わが国の文化なるものはすべて本を海外にとり、国風化することに末がある」とSUEの韻を踏んで、パラレルに展開しているように感じた。また、秀吉に連れてこられた陶工の話しが、冒頭の名器「村雨の壺」の話しに繫がっていることを、図解のおかげで感じることができました。私にもついに、割り当てが回ってきました。テーマは「琳派」なんとなく屏風絵や硯箱などの写真の記憶はありますが、うまく説明できない。そういう意味では良いテーマを戴きました。頑張ってみたいと思います。

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歌人の岡井隆さんが死去/戦後短歌界をけん引 | 全国ニュース | 四国新聞社

「名言との対話」7月10日。岡井隆「だめな人間だったわたしは、それでも歌のおかげで、なんとか生きて来られたのである」

岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - 2020年(令和2年)7月10日)は、日本の歌人・詩人・文芸評論家。 享年92。

名古屋出身。旭丘高校を経て慶應大学医学部卒。内科医としてながく病院につとめる。医業と文学のせめぎ合いの人生だった。1946年「アララギ」に入会。1951年近藤芳美らと「未来」を創刊。1955年頃より塚本邦雄らと前衛短歌運動をおこし、歌集「斉唱」で注目をあびる。「禁忌と好色」で迢空賞。現代短歌大賞。「ヴォツェック/海と陸」ほかで毎日芸術賞。「馴鹿(トナカイ)時代今か来向かふ」で読売文学賞

1983年から、中日新聞東京新聞に『けさのことば』を長年にわたって連載していた。1990年6月から2014年3月まで、日本経済新聞歌壇の選者を務めた。1993年より宮中歌会始選者を21年間つとめた。2007年から宮内庁御用掛。2016年、文化功労者

1975年の『鵞卵亭』(1975)から、短歌がもつ韻律の美しさを生かし、のびやかに現代人の内面を抉るようになる。1994年の『神の仕事場』あたりから、文語に口語文体を調和させるなど柔軟な作風を繰り広げる。定型詩の可能性を模索し、写実に偏りがちな短歌に思想性や社会性を持ち込み、虚構も大胆に詠み、英語や口語もふんだんに取り入れる。試行を続けてきた存在として、新しい世代に与えた影響は大きい。

1920年生まれの塚本邦雄、1935年生まれの寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人である。岡井によれば、前衛短歌運動は、象徴や比喩を多用し虚構も扱えば短歌にももっといろんなことが可能になるという、外からの短歌滅亡論への反論だった。また内では前衛狩りの歌壇の風潮と戦った。

以下、岡井隆の作品から気に入ったものを取り出した。

 恩寵のごとひっそりと陽が差して愛してはならないと言ひたり

 うつくしき女と会ひし中欧のカフェテラスより現在が生まれつ

 曙の光の中で読むときに昨夜の書(ふみ)の顏変わりゆく

 薬品にほとんど近き食品が勢ぞろひして寒し地下売場

 才能を疑いて去りし学なりき今日新しき心に聴く原子核

 草刈りの女を眼もて姦すまでま昼の部屋のあつき爪立ち

 かくのごとくわれもありしか青春とよびてかなしき閑暇の刑は

 おおわが朱色の聴診器死へむきてあへぐひとりも夕映のなか

 或る友を幸福の側へ差別してわれはも寝たり菊のごとくに

 売春と売文の差のいくばくぞ銀ほしがりて書きゐたりけり

 朝思へばぼくより幸福な奴なんてゐるわけがない歪むな隆

 ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて

岡井隆の短歌から現代詩、批評まで、2020年まで70年を超える活動はまさに多芸多彩であった。日常の細部を口語を交えて軽やかに歌う「ライト・ヴァース」(軽妙洒脱な詩)を提唱するなど、年齢を重ねるごとに作風も自在に変えていった。岡井自身によれば、自身は一貫して歌人であり、結社人として生涯現役の人だった。

NHK学園」の「短歌春秋」156号(2020年10月)「ありがとう 岡井隆先生」、157号(2021年1月)「岡井隆先生とともに」には、短歌界からのメッセージとともに、岡井本人の言葉も掲載されている。

「うた、といわれるように、音楽的な要素が大きな意味を持っている詩」「短歌の一部のかたちでメモをする」「すべて自然体」「気分転換になる」「素材のよさとかあたらしさで決まる」「一人になる」「気負わずに、さらっと」「さくたん作る」「一つの事や物を、いろいろな視線で見る」「執拗さとねばり腰」「リズム」「調べ」「言葉を拾う」

 蒼穹は密かたむけてゐたりける時こそはわがしずけき伴侶

 雨傘をはらりひろげて逢はむとす天はのかに杉にほひたる

また、156号では、永田和宏が追悼文を書ている。この号は永田の妻で歌人河野裕子の没後10年特集でもあった。永田は生命科学の研究者と歌人の二足のわらじ(二刀流)を履いており、医者であり文学者でもある岡井に共感している。

岡井隆『わが告白』(新潮社)を読んだ。2009年から2011年までの80代初めの日記である。過去を書く伝記が嫌いな岡井は、現在を書く日記に愛着がある。日記は「強い。勁い。つよい」と繰り返している。この本では過去と向きあうことの困難さをうかがうことができる。

短歌は作品が大事だが、歌よりも歌人の方が優先する詩型であると岡井は言う。歌人の人生と生活を知らなければ歌の価値がわからない傾向がある。破婚と反婚、そして5年間の恋の逃避行と同棲までの7年、入籍まで9年を経験した「超婚」の現在。嫉妬と悪意の嵐との戦い。裁判沙汰になったストーカー騒動。 栄誉願望はエンドレスであり、欲望を肯定してようやく心の平安を得た日々。幸福論や仕事論についての多くの読書、ヒルティ、アラン、アンドレ・モロワ、亀井勝一郎など。、、、、

岡井隆という歌人の特色は、「短歌とはなにか」「現代の日本人にとって短歌とはなにか」についての本をたくさん書いていることだ。多くの歌人の 生き甲斐短歌とは違う。自身をだめな人間だったという岡井隆は歌の力にすがって辛うじて生き延びたという。絵画の東山魁夷も何をしですかわからない自分を絵が救ってくれたと言っていたことを思いだした。

「短歌とは何か」は、岡井隆自身の生きる意味そのものを探るテーマだったのだろう。

 

わが告白

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