東京アートギャラリー(初台)ーー高田賢三展。寺田小太郎メモリアルギャラリー。

東京アートギャラリー(初台)を訪問。

高田賢三 夢をかける」展を見てきた。この「ケンゾー」として有名なファッシンデザイナーは、30歳でケンゾーブランドを立ち上げて、60歳まで疾走し、60歳で過去に別れを告げて、空間をデザインする方向に脱皮していた。2020年10月4日に81歳でコロナで亡くなっていた。

別途、詳しく報告する予定。

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この東京アートギャラリーの中にある「寺田小太郎メモリアルギャラリー」を見てきた。この寺田小太郎は、2021年に多摩美術大学美術館で「寺田小太郎 いのちの記録 コレクションよ 永遠に」展をみたことがある。

寺田小太郎(1927年5月7日-2018年11月18日)は、滋賀近江を出自とし、東京初台に500年続く家督を継いだ。新国立劇場建設に伴って行政が構想した文化施設の併設プランに賛同し、この都市開発にプロジェクトに参画する。

寺田は私有地を売却した資金を含む私財を投じて本格的な作品収集を開始する。そして開発プロジェクトの委員会に、唯一個人として参加する。そこでは収益中心のオフィスビルではなく、ビルに芸術性を持たせることを地権者として主張した。そして1999年の東京オペラシティーアートギャラリーの開館に貢献する。

故・寺田小太郎氏のコレクション展の後編を開催。相笠昌義、奥山民枝、舟越保武など戦後の多彩な作家の収集作品を展観。 | 学校法人 多摩美術大学の ...

寺田コレクションは総数約4500点に上る。戦後日本美術から日本現代アートに至るまで幅広い年代とジャンルにわたっている。

寺田小太郎は東京農業大学に学び、造園の仕事に就いている。造園という仕事は、景観の骨組みになる部分は最初にしっかり作っておいて、多様な花木類を、苗に近い幼樹を差し挟み、それらが時間の経過の中でどのような展開を示していくかをみながら、徐々に完成させていくという考え方だ。

造園とは集めて再編成することで一種の「世界(コスモロジー)」を創造する行為だ。ゆっくりと時間をかけて育んでいくのが造園である。

庭づくりと絵画収集に 挑んだ足立全康の島根の足立美術館俳優の大河内伝次郎の京都の大河内山荘を私もみてきたが、寺田も含めて、庭づくりは命をかけた創造の場であったのだ。

そして庭づくりの基本は、木でも石でも持ち込むのをまず置いてみる。木や石の声を聞けば、行きたいところへ行ってくれる。まさに自然に置かれるように据えるということである。

そういう意味では、最高の趣味であるといわれる庭づくりも、芸術のコレクションも同じ、時間をかけた創造行為なのである。

「日本とは何か」、そして「人間とは何か」を改めて根底から問い直すところから寺田の戦後は始まって関心が広がっていった。

寺田のコレクションは最終的に「人間とは何か」と言う根源の問いを発している。収集作品の中で菅創吉の名前があった。この人は須藤一郎さんを目覚めさせた画家である。

寺田はキュレーター的な視点を備えたコレクターだった。「見る人にも考えてもらいたい」と語っていた。自分の考えに沿って、納得した上で購入すると言う収集の仕方だった。

寺田は自分の頭でよく考える人だったようだ。自分自身で読み、話を聞き、考え、判断し自分の考えとする。そういう独学を91歳の最後まで続けた人だった。柳田国男の「民俗学」の世界、渡辺京二の「近代」、レイチェルカーソンの「センスオブワンダー」、今西錦司の「私の進化論」など。

自伝「わが山河」で、学んだこと。

「近江泥棒と伊勢乞食」。近江商人商才にたけ、伊勢の人は勤倹に努めて、ともに商人として成功した者が多かったところから、「宵越しの金は持たない」と自負する江戸っ子が負け惜しみに言った言葉だ。

縄文中期は26万人弱、平安鎌倉期はほぼ600万人前後、江戸期に入って約3000万人

で静止。終戦直後は8000万人、現在は1億2000万人、、。

寺田は環境問題、食糧自給率問題、などに問題意識があった。「私に最も近しい存在であり、万葉に多摩の横山とうたわれた多摩丘陵も削られてやがて山容が改まるまでになった。この丘陵を己の血肉のことを感じてるだった私は、我が身がさいなまれるように感じ、この国はもうダメかもしれないと思った」。

コレクションという行為についての考えを聞こう。

「財産を残してもとても虚しい感じがするのです。自分の生きた証として何を残すのか。最終的には芸術しかないと感じる」「財産として残すべきものは、芸術文化であり、コレクションである」。

「コレクションは造園と同じで、既存のものを集めたり組み合わせていくことで新しい世界を創り出していく。コレクションすると言うことも創造的な営みではないかと思います」

「私はコレクションを通して自分を表現したいのだと思います」「他の人が描いたものを集め、その塊に自分を反映しているということになったのです」

「このコレクションは、あくまで私個人の目と頭で作ったものですから、偏りの多いクセのあるものだと思います。しかしあるものそれが面白いのではと思っています」

絵画コレクションは、創造であり、「表現行為としての収集活動」なのである。

【告知動画】展覧会「寺田小太郎 いのちの記録 ーコレクションよ、永遠に【後編】継承」 - YouTube

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漫画家サトウサンペイさん死去「フジ三太郎」26年間、8168回連載 - 社会写真ニュース : 日刊スポーツ

「名言との対話」7月31日。サトウサンペイ「あいつが悪いと、人を責めえる。だから、絶えず祈りというものが必要なんだ」

サトウ サンペイ(本名:佐藤 幸一(さとう ゆきかず、1929年9月11日- 2021年7月31日)は、日本漫画家

「平凡なサラリーマンの生活」を描き、「サラリーマン漫画」の創始者と評されるほか、紀行文やエッセイの執筆もおこなった。

名古屋出身。旧制京都工業専門学校(現在の京都工芸繊維大学)に入学。卒業生の大丸宣伝部長に紹介されるがその先輩が履歴書を紛失し、頼み込んで受験。面白半分で新たな履歴書としてペンで漫画を描いて提出して合格する。「この履歴書が、正真正銘、ぼくの漫画の処女作なのである」。

入社した直後に、夕刊新大阪新聞の小谷正一編集局長に紹介される。そして週に一回の漫画を描くことになった。昔、岡本一平という偉い漫画家がいた。朝日新聞の漫画で超売れっ子だった人で、妻は小説家の岡本かの子、息子は岡本太郎だ。「じゃあ、ぼくは三平ぐらいですかね」と、サトウサンペイペンネームになった。

1957年に大丸を退社し漫画家専業となった。1965年から朝日新聞夕刊で4コマ漫画「フジ三太郎」の連載を始め、1991年まで26年の長期連載となった。サラリーマン時代は遅刻の常習犯であだ名は「遅刻マン」だったが、そういった平凡なサラリーマンの哀歓を描いた作品は読者の支持があった。サトウサンペイは「サラリーマン漫画」の創始者となった。

1968年から「週刊朝日」にカラー漫画「夕日くん」の連載を始めたとき、「暮らしの手帳」の花森安治編集長から「おもしろい!その調子、その調子。これがほんとうの漫画だ!」との手紙が届く。絵に短い文をつけた戯評を書くことをすすめられ、「暮らしの手帳」に長い文を添えた漫画を連載した。その抜粋、加筆したのが、サトウサンペイ『見たり、描いたり』(朝日新聞社)であり、今回それを読み込んだ。

「白無垢鉄火」といわれた名プロデューサーだった小谷正一との交流が描かれている。小谷の口癖は「君、そいつは後世に残るぜ」と才能をほめた。「PRはラブ・ミー。広告はバイ・ミーだ」「日本でもっとも素晴らしいプロデューサーは、安芸の宮島に鳥居を立てたやつだよ」、、。

この本には「私が信仰しているところの宗教」という言葉が何度も出てくる。調べたら、金光教だった。日本には13の神道教派があるが、出雲大社教に次ぐ43万人が信仰している。5歳のときに母に連れられて教会にいったのが契機となった。「天は父、地は母である。天と地との間に人間がいる」と経典にあるそうだ。金光教には文化人が多い。歌舞伎役者の他には、伊藤昌哉(池田勇人総理秘書官)、小川洋子(作家)らの名がをみえる。他の宗教を否定しないという宗教だ。

「あいつが悪いと、人を責める。だから、絶えず祈りというものが必要なんだ」は、金光教の教えや、「荘子」の「道(タオ)、金光教に理解のあった道教研究者の福永健司らの学びからきているように思う。サトウサンペイにはいい出会いが多い。それは彼の信仰にも関わっているように感じる。信仰を持っている人はいいなあ。