年内に刊行を予定している大型企画の著書の執筆が大詰めの段階にある。全5章で、1章、2章、3章はすでに完成し、今は出版社の編集者の手にあり、7月中に原稿整理が終わっているはずだ。
残りの4章と5章の原稿執筆がこの土日でようやく完成した。明日以降に編集者に手交する予定。
大きな、大きな山は越したが、これからも小さな山がいくつも控えている。集大成の本なので、気を抜かずに最後まで走り続けよう。
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西尾市の画家・斎藤吾郎さんから送っていただいた坂本其山『神谷甚兵衛』という復刻版の大著を読了。浅草の「神谷バー」の創業者として有名だが、どうしてどうして、大事実業家だった。
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公文情報塾の課題図書の貴志祐介『青の炎』(角川書店)が到着したんので読み始める。
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雑誌「イコール」に載せてもらう原稿を送付。
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明日5日の「アクティブ。シニア」未来フェスの準備。HP・ヨガ・川柳。
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朝と夕の散歩で6600歩。踏み台昇降のナイスデイで100回。
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「名言との対話」8月4日。津川雅彦「軽く見せるとリアリティーも出るし、粋になるんです。軽さこそ至芸」
津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2日 - 2018年〈平成30年〉8月4日)は、日本の俳優・映画監督・芸能プロモーター・時事評論家。享年78。
京都市出身。祖父は映画監督の牧野省三、父は歌舞伎役者、母は女優、兄は俳優の長門裕之、叔母が沢村貞子という出自。
子役を経て、1966年、16歳で日活の『狂った果実』の本格デビューし芸能界に入る。
1972年からの必殺シリーズの悪役としてブレークする。1973年には女優の朝丘夢路と結婚。
ジェームス三木の作品、渡辺淳一の作品、伊丹十三監督の作品に多く出ている。津川は、この3人を「三種の神器」のような存在として感謝している。
時代劇では信長、秀吉、家康の三英傑を演じた。映画『プラウド・運命の瞬間』の東條英機役は私の印象に強く残っている。『マルサの女』での演技気もよかった。俳優として大成したが、監督としてもマキノ雅彦の名で3本の作品をつくっている。
また、多摩大学創立初期には教壇にも立っている。その縁だろうか、後に宮城大学開学時に、野田一夫学長と3人で仙台市内の高級焼肉店でご一緒したこともある。津川さんは紳士だった記憶がある。また、この時、仙台にオープンしていた津川さんのおもちゃや絵本を取り扱う「グランパ」に野田先生と見学に行ったこともある。経営者の面もあった。
北海道の広尾町にヨーロッパの古城を「サンタのお城」として移築したり、ショッピングモールの「自由が丘チルドレンミュージアム、唐塾の「アイドルワンダーランド」の設立にも関与するなど、気が多い人でもあった。「子ども」に関心が高かった。
以下、俳優としての津川雅彦の言葉を拾った。
・軽く見せるとリアリティーも出るし、粋になるんです。軽さこそ至芸。
・歌舞伎でも落語でもうまい人は、力を抜くほど迫力が出るんだと知ってますよ。
・セリフを軽くするのは肉体訓練でね。何百回も量をこなして落語を口に馴染ませなければ、筋肉つけないでスポーツ選手を演ずるに等しい。要は質じゃなくて、量の問題。
・軽さを出すためには、“セリフを身に着けた”程度じゃまだまだ鎧を着けたように重い。ロレったり、不明瞭だったり、自由自在にはほど遠い。
・1日目に何回か繰り返して覚え、翌日忘れてまた覚える。それを繰り返すうちに、セリフが毎日、ポト、ポトッと臓腑に落ちていく。
・血、肉を通して内臓に叩き込まないと、セリフは軽く出てこない
・工夫を重ねるってことは、実は余計なところを削ってシンプルにしていく作業なんだ。
以上、名演技の秘訣は「軽さ」であった。
親友である緒形拳については「コイツにはかなわないなと尊敬するようになりました」と述べている。またライバルとして確執もあった兄の長裕之については、ある時期を境に共演も多かった。「まねしようのがない兄の個性ある役者っぷりがあったからこそ、僕も自分のやり方を探し続けることができた」とし、「天才ですね。兄がいなかったら、僕の人生はまったく違ったものになっていたでしょう」と語っている。
津川雅彦は、意外なことに「軽さこそ至芸」が持論であった。そのための訓練や工夫について述べているが、見ている側にはそういうことはうかがわせなかった。
津川と朝丘はあおしどり夫婦で有名だった。2018年4月に朝丘が、8月に津川が亡くなっている。その年の11月に合同の「お別れの会」が営まれている。最後までおしどり夫婦だったのだ。