夜:初めての「アクティブ・シニア」未来フェスを開催した。
多人数が集合。多士済々。多様な経歴。広い活動領域。元気。、、
京都、大阪、岡山、明石、沼津、金沢、名古屋、カンボジア、、。
ライフプラン。国境なき逍遥老人。個人出版。里山再生。城めぐり。社会人大学院生。心理サロン。シェア書店。脳力開発。シニアの応援。アフガニスタンの女子教育。人生手帳。日本文化の源流。シニアのシェアハウス。ストーリーデザイナー。加賀友禅作家。出版。歩行困難者対応。妻はクメール人。、、、、、
この笑顔を見よ!
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午後:JAL同窓会。今回は客室本部業務部時代の上司だった市川護さんを囲む「市川会」。飯田橋の茶房・はちはち(客室OBの天明さんが経営)。
近況報告から。「酒の日と禁酒の日の逆転。週3日勤務」。「辛い、近くに子供。伊藤淳二」。「ボランティア。スマホ、パソ。半分。アクティブ。子供食堂」。「中目黒。若がえっている」。「絵を。油絵」。「怠惰。エンジョイ。旅行。月1回。ハワイ。
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「名言との会話」8月5日。三宅一生「一日一日発想し、それまでにないものをつくり、新しい現実をつくる」
三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、1938年〈昭和13年〉4月22日- 2022年〈令和4年〉8月5日)は、日本のファッションデザイナー。享年84。
広島市出身。7歳で被爆。イサム・ノグチの平和大橋のデザインに感銘を受ける。多摩美術大学に入学。ファッションデザインを研究する「青年服飾協会」を立ち上げ、文化服装学院の高田賢三、コシノジュンコらと交流する。ファッションはデザインであるとの活動で頭角をあらわしていく。日本では時代の寵児となった三宅は、1956年にパリに進出。多くの人が気持ちよく着れる日常着のデザインを志す。1970年に帰国し、「イッセー・ミヤケ」ブランドで華々しい活躍をする。日本の伝統素材と手わざ、先端
テクノロジーをデザインで融合させるイノベーターとなった。一枚の布を活用し、ゆるく楽な、男女共用のデザインは人気を集めた。男女どちらでもない、「世界服」である。
三宅のデザイン哲学は「着やすく、かつ収納しやすい服をつくる」であり、「私が何かを作るとき、それは半分しか完成していません。人々が何年も何年もそれを使うとき、それが完成します」との考えだった。着た人が動くときれいに見える服ともいわれる。
愛用者のリストが興味深い。スティーブ・ジョブス。ビートたけし。レディ・ガガ。美輪明宏。小池百合子。楠田枝里子。ミッツ・マングローブ、、。
2010年、文化勲章。
2006年に三宅一生展(六本木の国立新美術館)を訪問した。
この三宅一生の思想をこの美術館で拾ってみた。
- 「衣服を通してより良い社会をつくる」
- 「一日一日発想し、それまでにないものをつくり、新しい現実をつくる」
企画展を見た後に、次の本を読んだ。「三宅一生 未来のデザインを語る」(聞き手・編:重延浩・岩波書店)
- 三宅一生は、衣服はどんな素材からもつくることができる。それを様々な方法で加工し、新しい形をつくることだと考えている。
- 日本から世界に発信するには、素材づくりからはじめる必要があり、日本中を歩いてまわった。日本は素材の宝庫だった。しじら織り、刺し子、、、。
- ものはどこから来たのかを知るという楽しさ、それがものをつくる楽しさだ。
- 日本にはまだ手仕事の最後の火が残っている。それを蘇らせたい。
- 自分は不器用だから、流行を追うことはしない。
今回、改めて『PEN 三宅一生の仕事』を手にした。「永久保存版」と銘打っている。「太鼓の記憶が蘇る、セクション椀の衝撃」「野生の服が切り開く、新しい時代の可能性」「アーヴィング・ベンと三宅一生、奇跡の仕事」「デザインを文化として伝え、継承するために」「シンケンでキケンな遊びは、どこへ向かう>」など刺激的なタイトルがならんでいる。
人間と衣服の関係は「一枚の布」である。肉体と衣服の間に自分自身が作る空間があるという考え方で仕事をする。できるだけ布地を裁ち切らないで存分に空気を入れてしまう。そしてシンプルな造形にして、着る側とつくる側が、責任を半々に持ち合う。こういう仕事を続けるための条件は、世界が平和であることだと痛感した。
「一日一日発想し、それまでにないものをつくり、新しい現実をつくる」という言葉にも感銘を受けた。イッセイ・ミヤケは、日本の伝統技術と最先端テクノロジーを融合させて、時代を駆け抜けて、世界を震撼させたイノベーターの生涯を送った人である。