本日の図解塾のテーマは、「忠臣蔵」と「和歌」でした。
以下、塾生の学びから。
- 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。最初に先日開催した「アクティブシニア倶楽部未来フェス」の感想をシェア。参加者のアクティブでかつユニークな活動に多いに刺激を受け、リアルでの交流やコラボイベントの開催にも発展していきそうな勢いで、今後の展開がとても楽しみです。『日本を知る105章』は「忠臣蔵」と「和歌」を図解で読みました。「忠臣蔵」は元禄時代に起きた赤穂事件をもとに、虚実入り混じった庶民目線での物語として、芝居、講談、邦楽など多くの芸能に影響を与え、今も昔も人気を博しているところが凄いと改めて思いました(ユネスコの文化遺産にまでなっている!)。 そして、今回担当させていただいた「和歌」。五七五七七を万葉から現代まで俯瞰。万葉の頃に「倭歌」として始まり、平安・鎌倉時代に「人の心」を読む「和歌」として日本文学の中心となり、近代に入ってふたたび「短歌」として、個人の「より自由な表現」を積極的にとり込み、さらに「TANKA」として世界にまで広がりつつあることが分かりました(発展してます)。「忠臣蔵」も「和歌」も知れば知るほど深掘りしたくなるテーマでした。ありがとうございました。次回もまた楽しみです。
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久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回は、はじめに先日開催されたアクティブシニア倶楽部の未来フェスの感想を共有しました。私も、この未来フェスで新たなつながりができ、興味深いお話を聞くことができ、心の豊かさを得ることができました。感謝しております。 今回の図解塾では、①「忠臣蔵」と②「和歌」について図解を学びました。私は神坂次郎さんが書かれた「忠臣蔵」の記事を基に図解を作成し、説明させていただきました。「忠臣蔵」は1701年元禄時代の赤穂事件をもとに、1748年に「仮名手本忠臣蔵」として人形浄瑠璃で初演されて以来、浪曲や映画に広がり、国定教科書に掲載されたり、ユネスコの文化遺産に登録されたり、日本人の心の古里として永遠のベストセラーを続けています。華やかな元禄時代の義理と人情、忠義と義務など、人間模様が描かれていることが魅力的だと思いました。「忠臣蔵」は大変な長編ですが、図解にすることで理解しやすく、説明もしやすかったです。②「和歌」の図解の説明も大変興味深かったです。和歌が作られた時代の流れや和歌の意味など、初めて聞く内容ばかりでとても興味深かったです。前回は俳句の図解の説明を聞きましたが、それにも関連しており、その他短歌についても触れられていました。和歌を中心に日本のさまざまな歌について学ぶことができました。特に印象に残ったのは、和歌が「人の心を読む」ことであると説明されたことです。これは短歌にも通じることだと思いますが、亡くなった祖母が短歌を習っていて、タンスの奥から40枚くらいの短冊に書かれた短歌が見つかりました。祖父の面会に行ったことや家族について詠んだ句が多く、祖母の心の動きが伝わってきました。今回のお話を聞き、日本人は昔から人や自分の心を表現し、伝え、読み取る文化があったことを改めて考えさせられました。次回も楽しみにしております。ありがとうございました。
田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。 衆議院議員(11期)。享年91。
田川誠一は、「政治倫理」と「政治の改革」がテーマの30余年の議員生活を送る。11期連続当選した。半分は与党自民党、半分を新自由クラブ、進歩党という野党として過ごした。1976年自民党を脱党し、河野洋平の新自由クラブ結成に参画。幹事長、代表。1983年自民党との連立内閣で自治大臣・国家公安委員長。1986年新自由クラブ解党後に進歩党結成(代表)。
立派な制度も意識の変革がなければ、政治腐敗はなくならないとする田川は「政治倫理」には「コーヒー・一杯運動」で少額資金集めで政治活動を行った。
政治家に対してロッキード事件の際には次のような感慨を述べている。「時が経てばすべて忘れ去られる」という考え方がまかり通るようになってきた。国会の権威は地に堕ち、責任感や自浄能力は失われる。「上正しからざれば下必ず乱れる」と語っている。またリクルート事件の頃には、ある評論家の永田町三原則をあげて政治家として恥ずかしいとしている。「バレなければなにを言ってもかまわない。いったんバレたら全部、秘書のせいにして逃げる。それでもダメなら開き直ってみんなで渉ればこわくない」。
マスコミに対しても批判的だ。解決するまでやるという執念が日本人には欠けている、これの一番悪いのがマスコミだ。解決していない問題はとことんまでやることが必要だ。政治腐敗が続くのはマスコミの健忘症にも責任あり。人のウワサも七十五日と言いますが、三カ月四カ月たつと、ニュースが古いといって書かなくなり、国民は忘れてしまう。
平成末期の現在に至っても、このあたりは、まったく変わっていないと苦笑せざるをえない。
田川誠一は、信念の政治家であり、激動の情勢変化の中、「政治化には妥協を許されることとと、譲ることのできない一線がある」という名前の通りの誠実さと、「余力を残して退くことが、政治化として大事なことだと思う」という、きれいな出処進退が印象に残る希有な政治家だった。
田川は「若い人たちには『将来』があると、よく若手は言うが、私には『晩節を全うしたい』という思いがある」と語っていた。
田川誠一は、10年を経た新自由クラブ解党と自民党への復党に際して、若い人の将来をおもんばかって妥協は許される、と寛容な態度を示した。しかし、老人である自分は晩節を汚すことはできない、とやせ我慢の道を歩き、節を曲げずに政治家人生を全うしたのだ。人には寛容であるが、自分には厳しい。人生には「痩せ我慢」が必要なのだ。