東京アートギャラリー「高田賢三」展。
兵庫県出身。神戸外大中退、文化服装学院卒。三愛勤務をへて、1965年パリにわたり、キスタイル会社で修業後、1970年にパリで店をだす。和服をはじめ世界各地の民族衣装からヒントをえた独特な服をパリから発表しつづけ、国際的にたかい評価をえる。1999年に後進にブランドをゆずる。2004年のアテネ五輪日本選手団公式ユニフォームをデザインした。2020年10月4日、新型コロナ感染症による合併症でパリ郊外で逝去。
以上が高田賢三、「ケンゾー」の略歴である。
先日訪問した東京アートギャラリーの「高田賢三」展で入手した『TAKADA KENZO』から「木綿の詩人」「色彩の魔術師」と言われたケンゾーの言葉を拾ってみた。
- 僕にとってクリエイションとは喜びと幸せ、何より好きなように動きくつろいで生きる自由、そしてまた皆さんに自分自身でいられる自由を贈ることでもあります。
- ファッションはライフスタイルの一大要素。夢であり、生きる上でもビタミン剤です。美しい服を着て、あるいは着た人を見て心が豊かになる。最終的には平和に貢献するのかな。
- オーソドックスなラインを踏襲した上で、従来のしきたりを無視してかかることにしている。
- 冒険心が私の人生と創造の原動力。
パリの高田の旧宅のリノベーションをやった建築家の隈健吾は、学生時代から高田賢三と山本寛斎の自由さに憧れていたとし、「自分も、建築を通じて、彼ら(ケンゾーやカンサイ)の自由を引き継ぎ、未来に伝えたいと思う」と「高田賢三展によせて」で語っている。ファッションと建築という世界は違うが、彼らは束縛を嫌い、禁欲から脱して、「自由」をテーマとしてそれぞれの分野で革命を起こしたのだ。
高田賢三はデザイナー30周年、そして60歳を区切りに「KENZO」ブランドから退いて、新しい挑戦を始めている。また70歳を機にパリの自邸と美術コレクションを売却し、再出発を宣言。2020年に新型コロナで81歳で死去。
高田賢三は、「冒険心が私の人生と創造の原動力」というように、常に冒険心をもって、新しいジャンルで創造的な仕事をしている。高田賢三は、人生戦略を持っていた人であった。
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「名言との対話」8月8日。翁長雄志「イデオロギーよりアイデンティティ」
翁長 雄志(おなが たけし、1950年10月2日 - 2018年8月8日)は、日本の政治家。沖縄県那覇市長(4期)、沖縄県知事(本土復帰後第7代)を歴任。享年67。
沖縄の政治家では、屋良朝苗、瀬長亀次郎、西銘順治、太田昌秀が思い浮かぶ。その系列の大きな存在が翁長知事だ。
1985年那覇市議。県会議員、自民県連幹事長、仲井眞知事の選対本部長。そして200年に小学校のころから夢見た那覇市長に就任し、4期つとめる。もともとは自民党一筋の政治家だった。2014年には自民党と袂を分かって仲井眞知事に10万票の差をつけて圧勝し、沖縄県知事。保守政治家としての信条は「政治は妥協の芸術」だった。座右の銘は「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」。死去の日には、琉球新報の号外が2度出た。「魂の政治家」だった。
先祖は琉球王朝の下級武士。
那覇市長であり沖縄戦で無s機の眼前で戦死した祖父・翁長助信。保守政治家とし沖縄の自治権拡大を求め、遺骨収集に奔走し、米軍政府と対峙した父・翁長助静は、基地を巡ってウチナンチュウ同士がいがみ合う様を見せ付けられた。それを高見で笑っているのは誰か、と常に語っていた。息子の翁長雄志も「基地の問題に関しては沖縄の人間は右も左も、本当は被害者なんですよね」と語っている。
翁長雄志に関しては私は2冊の本を読んでいる。2018年に亡くなった直後は『魂の政治家 翁長雄志発言録』(琉球新報社)、そして2024年に松原耕二『反骨』(朝日新聞出版)だ。
翁長は野中広務、橋本龍太郎、梶山静六、らはハートがあった。小泉あたりからハートがなくなってきたと言っている。
まだ翁長知事が元気な頃、東京のシンポジウムで翁長さんの話を何度かきいた。穏やかなだが、はっきりとした口調で、だが自制心をもって、沖縄の現状と主張を語っていたのが印象に残っている。
以下、翁長知事の発言から。
・安倍首相の「美しい日本」、「日本を取り戻す」の日本に沖縄は入っているのか。
・日米安保は理解するが、0.6%の国土面積に米軍専用施設を74%も置くのは、とんでもないことだ。
・平和、基地の問題で自己決定権がないために翻弄されるようでは、沖縄に生まれた政治家としては、将来の子や孫に責任が持てないと思っている。
日本については、「品格のある、民主主義国家としても成熟した日本になって初めて、アジア、世界に飛び出ていける。、、、日本の政治の堕落だといわざるを得ないと思う」と戒めている。
翁長は知事在職のまま、すい臓がんで倒れた。最後まで意気軒昂として辺野古基地建設阻止に努力した姿は、県民と国民に強い印象を与えた。
「県民が右と左で対立しているのを、後ろで笑っている人たちがいる。だから沖縄は一つにまとまらないといけない」と常に語っていたと妻の樹子さんは述べている。「オール沖縄、イデオロギーよりアイデンティティ」をこの人の名言として記憶したい。私と同じ1950年生まれの翁長知事の生き様には、深い感銘を受ける。