神谷傳兵衛という人がいた。1856年生まれで1922年に永眠している。江戸生まれで、明治・大正時代に活躍した。この人の名は、浅草の「神谷バー」として残っている。国産ワインを製造したワイン王を皮切りに様々な分野で事業を成功させた大実業家だ。
東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。旭製薬社長のほか、神谷醸造、日本製粉、九州炭鉱汽船、三河鉄道、東洋遊園地などの役員を務めた。全国区の偉人ではないが、三河(愛知県西尾市)の偉人である。「ミニ家康」という評価もある。
こういう郷土の偉人は時代が変わると忘れられることが多い。坂本其山『神谷傳兵衛』(1921年刊)が100年後の令和になってに味岡源太郎著の復刻本として刊行された。また、斎藤吾郎画伯の200号の大作『神谷傳兵衛さんに乾杯!』が制作された。
この復刻本や漫画本を最近知り合った斎藤吾郎さんから送っていただいた。
神谷傳兵衛について接した著者の坂本は次のように描写している。
「寸を得て尺を進み尺を得て丈に進む人」「機会を巧みに捉ふる人」「雪をになふて井中を埋める人」「着眼の非凡なる人」「克己心の強き人」「型の小さき徳川家康」「正直にして誠意ある人」「事業中心主義の人」「力を善用する人」「独力独歩にて成功したる人」「有効なる生活をなすの人」。
神谷は同時代の偉人たちとの交流が多い。彼らの神谷評をいくつか。
- 杉渓六橋男爵「広く葡萄を植え、美酒を醸造し。甕を連ねて芳春を貯える。将来、司馬遷のような人が富豪の列伝を編述したら、この人のことを収めであろう」
- 田健治郎大臣「貧困から身を起こし、辛酸に耐え、自ら実行して山のごとき富を築いた。世のために財産を還元し、まさに立志伝中の人である」
- 佐藤進医学博士「仁徳の嵐が潤す露となる。神谷翁が災害被災者や弱者救済のための多額の寄付を行ったことを讃える」
- 徳富猪一郎・蘇峰「功労を誇らず、功績をたててもその徳を口にしない」
- 安田善二郎「自らは質素音にし、人によく施す仁の人である。自らは質素にして、多くを求めない義の人である」
斎藤吾郎画伯の『神谷傳兵衛さんに乾杯!』は、一枚のこ絵の中に成し得た事業と関係した渋沢栄一、勝海舟などの偉人たちを描き込んだ大作は壮観だ。「功績と人物」の曼荼羅だ。斎藤は「熱田神宮・千九百年」、「三河刈谷の万燈祭り」など、独特の赤色の大作を描いている。世界を一枚に込める曼荼羅絵の画家である。
私は全国の人物記念館巡りを始めて20年近くになる。日本には偉いひとがこれほどいるのかと感銘を受けてきた。記念館とまではいかなくても、郷土の偉人を深掘りした「伝記」や、「曼荼羅絵」、「漫画」などで検証し、後生の生き方の参考にすることは素晴らしい事業だ。埋もれた、あるいは忘れられた偉人の発掘を進めることは、日本人の精神の復興に益することになる。
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「名言との対話」8月10日。渡哲也「石原との出会いが私の人生でした」
渡 哲也(わたり てつや、本名:渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)、1941年〈昭和16年〉12月28日 - 2020年〈令和2年〉8月10日[2][3])は、日本の俳優・演歌歌手・タレント・実業家。享年78。
島根県安来市生まれ、淡路島育ち。青山学院時代は空手部に所属。機械いじりが好きで、日本航空の整備士の試験を受けている。在学中に日活を訪問したおりに、スカウトされて入社した。1965年、あこがれの石原裕次郎と初共演。裕次郎2世とも呼ばれ、日活のスターとなっていく。
1971年の日活を退社し、倒産の危機にあった石原プロに入社する。1973年に「くちなしの花」をリリースし大ヒットした。この歌が歌手としての代表作となった。渡は石原プロ副社長として再建に奔走した。1987年に裕次郎が52歳で死去した後は、石原プロの社長となった。2011年に裕次郎の23回忌を機会に24年つとめた社長の座を退いた。2020年に死去。
私のカラオケの18番は「くちなしの花」だ。星野立子は「今朝咲きしくちなしの又白きこと」を挙げて、いま咲いたばかりのくちなしのように新鮮な句を詠みたいと願っている。朝の散歩のときに、くちなしの花をよく見かける。真っ白の純白の花であるが、時間が経つと黄ばんできたなくなる。立子が詠んだ「くちなしの日に日に花のよごれつゝ」はそれを詠んだのだろう。実が割れないのでクチがなく、くちなしという。春のジンチョウゲ(沈丁花)、秋のキンモクセイ(金木犀)と並んで三大香木の一つとされており、甘い香りを初夏の6月頃に放つ花である。
作曲した市川昭介は、この歌に「男の歌にはほどよい照れがあった方がいい」とのタイトルがついている。歌詞についている指導のメモは「全体に流れやすいので一言、一言、言葉をかみしめてうたう。〇印は適当な伸ばしで」「あまり思いをこめるといやらしくなってしまう。シャイな感じでうたってほしい」である。わかりしました。市川昭介先生!
さて、渡哲也は、7歳年上の石原裕次郎との出会いが大きな意味を持っている。俳優人生の最初には、食堂で挨拶したところ「君が新人の渡君ですか、がんばってくださいね」と声をかけてもらった。それから石原プロの社長時代まで、一貫して裕次郎を崇拝し、裕次郎のために力を尽くしている。石原プロの社長を退く時も、在任期間で裕次郎を越えられないという理由もあった。二人とも病気が多かったが、友情の絆は強かった。
7歳年上の裕次郎と渡は誕生日も一緒だった。二人の縁は深い。「石原との出会いが私の人生でした」という言葉に納得した。