79年目の「終戦記念日」の武道館での全国戦没者追悼式の映像をみた。
天皇陛下、総理大臣、衆院議長、参院議長、最高裁長官、戦没者代表が、300万人以上の犠牲をもたらした戦争の惨禍を二度と繰り返さないという誓いを述べた。
「全国戦没者之書」は誰が書いているのか。
毎年の全国戦没者追悼式の標柱の揮毫は書家・金子鴎亭の書だった。標柱の揮毫は、幅45Cm、長さ4m50cmの桧材で一発勝負である。1952年に第一回を書き、1963年から1993年までの実に31年間にわたって書き続けた。1952年の57歳から、最後に書いたのは88歳の時だった。60歳頃からは毎朝5時に起き散歩をして健康状態をベストにしてこの仕事を続けようとした。
1999年からは新井光風という書家が書いている。「漢字書」の第一人者だ、今年も書いているとすれば新井は今年87歳になるはずだ。
書家で文化勲章を受章しているのは3人。西川寧(書の巨人)、金子鷗亭(近代詩文書)、高木聖鶴(かな書)。
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今日の収穫
学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉体は増えるが、知恵は増えない。(タンマハダ。中村元)
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「名言との対話」8月15日。笹本恒子「人生は不思議なもので、開くドアを一つ違えるだけで、その先がまるで変わってしまいます。」
笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 - 2022年8月15日)は、日本の写真家。享年107。
東京都出身。「女性報道写真家第一号」として著名である。また肖像写真家としてもすぐれた作品を遺している。
2014年に日本新聞博物館(ニュースパーク)で開催中の「日本初の女性報道写真家・笹本恒子100歳展」を観た。
1929年竣工の旧横浜商工奨励館を保全・活用した横浜情報文化センターの中核施設がこの博物館である。由緒ある、そして雰囲気のある建物だ。関内にはこういう文化施設があちこちにある。1階の広い空間には新聞を刷る巨大な輪転機が鎮座している。2階から5階が日本新聞博物館。
笹本恒子は1914年生れで2014年に100歳を迎えた。カメラを手にして75年で、撮影や執筆に忙しい日々を送っている。1940年に26歳で写真協会に入り報道写真家となって、日独伊三国同盟の婦人祝賀会、ヒトラーユーゲント来日、日米学生会議の記録、そして日米開戦前夜の貴重な写真を撮影した。
1941年に結婚するが、戦後に離婚。フリーとなって、初代南極観測船・宗谷、原爆ドーム、三井三池争議、安保闘争などの事件や、徳富蘇峰、岡本太郎、大宅壮一などの著名人を取材する。
20年の沈黙を破り、1985年から71歳で再びカメラを手にし、宇野千代や三岸節子など明治生まれの女性シーリーズを手がける。この展覧会では、女性シリーズが素敵だった。壺井栄、加藤シズエ、澤田美喜、中村汀女、石垣綾子、杉村春子、佐多稲子、丸木俊、吉行あぐり、淡谷のり子、沢村貞子、斎藤史、美空ひばり、笠置シズ子、越路吹雪、、、。
男性では、市川猿之助、千宗室、白井義男、野村胡堂、三笠宮、三木武吉、藤山一郎、山田耕筰、力道山、三船久蔵、升田幸三、井伏鱒二、大仏次郎、長谷川伸、尾崎士郎、室生犀星、新藤兼人、、、。この人の写真では、やはり人物写真がいい。
2011年に吉川英治文化賞を受賞、。2018年、東京都名誉都民。
2014年の「笹本恒子100歳展」をみてから10年経った。笹本は2022年に107歳という年齢で永眠していることに驚いた。偉大なセンテナリアンであった。
『自伝 笹本恒子の97年--お待ちになって、元帥閣下』を読んでみた。
「人生は不思議なもので、開くドアを一つ違えるだけで、その先がまるで変わってしまいます。」という「96歳の転機」のなかの言葉にうなずいた。学校の選択、就職の選択、配偶者の選択、、、人生は選択の連続だ。ドアが一つ違うだけで、その先に違った風景が広がっている。笹本恒子の場合は、107年という長い時間を過ごしたから、さまざまな「もう一つの人生」があっただろう。