20時から、知研フォーラムの「セミナー」。ゲストは世古真一さん。「かたづけと段取りの技術ーーファイルティーチャーと情報介護」。参加者は20人ほどで盛況だった。
数十年間、研鑽を続け、人生120年を展望した体系をつくりあげた物語だった。一日と生涯の連関を日々意識しながら記録をつけ続けて、開発したシステムだ。
参加者には好評で、質問や感想が多く出た。
私は「段取り」という言葉に着目して発言した。自分という存在の姿が見ているから機嫌がいいと語っていた。上機嫌の理由は「見晴らし」だと思う。「今日も生涯の一日なり」を見る化したシステムだ、
「段取り」という言葉を重視する人物を思いだした。
- 池波正太郎は「約束も段取り・仕事も生活も段取りである。一日の生活の段取り。一ヶ月の仕事の段取り。一年の段取り。段取りと時間の関係は、二つにして一つである」と言っている。膨大な作品を書き続けたこの人の秘密は、段取りであった。その段取り力で締め切り前に仕事を終わらせ、自分の時間を楽しんだのだ。
段取りのうまかった人とその言葉をあげてみよう。
「段取り力」とは、スケジューリング力ともいえる。自分と他人の能力と持てる時間を俯瞰し、スムーズに流れるように計画し、進め、最速のスピードで仕上げていく力である。
どんな仕事でも、そして人生という大仕事においても、この段取り力がキーワードになる。スピード感をもって残業をしない人、膨大な仕事量をなんなくこなす人には、この段取り力がある。それが締め切りを守ることになる。
ものを書く場合は、早めに手をつけることも、この段取りの一つだ。早めに着手すると、考えることの回数が自然に多くなる。他の情報との関連でヒントをもらうこともでてくる。テーマに対し立体的に取り組むことになっていく。気がつくと早めにかなりの作品ができあがることになる。
締め切り直前に頑張っても、作品の質はおぼつかないはずだ。質が高く、膨大な量の仕事をしている人の秘訣は「段取り力」なのだ。考えてみれば、複雑な人間関係を総合的に扱っている家庭の主婦たちの仕事も、この段取り力で成果が違ってくる。この力は、誰にとっても重要なものであることは疑いがない。
朝10時、九段の寺島文庫で寺島実郎さんと面談。「アクティブ・シニア」についての動きを説明する。宿題ももらった。終わって外に出ると、ものすごい豪雨だった。
12時、新橋で橘川さんと福岡から上京した八木さんと昼食。今後の展望。終わると、天気は回復していた。
14時:東京スレーションギャラリー「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展。
19時:NPO法人知研の幹部会
20時:セミナー
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「名言との対話」8月22日。藤圭子「赤く咲くのはけしのはな 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさ このわたし 夢は夜ひらく」
藤 圭子(ふじ けいこ、1951年7月5日 - 2013年8月22日)は、日本の演歌歌手。本名、宇多田 純子(うただ じゅんこ)。享年62。
岩手県出身。幼いころから浪曲師の両親と、旅回り生活で自らも歌い喉を鍛えた。作曲家八洲秀章、作詞家石坂まさをに見いだされ上京。69年に「新宿の女」でデビューする。その後も「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」と、続々ヒットを連発。夜の世界の女の情景を、見事な歌唱で歌い上げる「怨歌」で一世を風靡した。
1960年代末から1970年代初頭にかけて、夜の世界に生きる女の感情を描いた歌を、伸びやかに、深々と歌い上げ、一世を風靡した歌手だ。
ドスの効いたハスキーボイスと可憐な風貌とのギャップを不思議に思いながら、テレビに見入っていたことを思い出す。不思議な存在感を醸し出す歌手だった。
母は三味線瞽女。藤圭子は昭和の歌姫。娘は天才歌手・宇多田ヒカル。母娘に天才の遺伝子があると天才が生まれるという節がある。三味線瞽女、悲しき歌姫、天才・宇多田ヒカル、と続く血の流れを、現代の歌姫・宇多田ヒカルは、音楽をやっている自分をどう思うかと訊かれて、「呪い」と表現している。
1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え、日本国内の歴代アルバムセールス1位になった娘の宇多田ヒカルは、アメリカンスクールの高校生の時は全成績が「A+」という最高評価だった。そして当然のように名門コロンビア大学に合格している。
母の藤圭子は中学生では通知表はオール5であり、恐ろしく頭の回転が速く、頭が良かった。ひかるはその娘だ。宇多田ひかるは、自らつくる歌詞も素晴らしいが、言葉も凄い。「どうしようもないくらい絡まってぐちゃぐちゃになったネックレスを、一生懸命ほどくような感じ」(「歌詞ってどうやって書くんですか?」への回答)。「私が曲をつくる原動力って結局「恐怖」と「哀しい」と「暗い」なんですよ、全部」。
阿久悠は「時代に食い込んだり、時代を引き裂いたりする力は、母(藤圭子)の方にあったかもしれないんだよ」と藤圭子の存在を評価していた。
藤圭子の歌を、演歌でもなく、艶歌でもなく、援歌でもなく、負の感情から発した「怨歌」と表現した五木寛之は、黒人のブルース、宿命を意味するポルトガル民謡・ファドなどと同様の、下層から這い上がってきた人間の、凝縮した怨念の燃焼と語っている。
村上春樹は新宿のレコード店でアルバイトをしている時、訪れた藤圭子を感じの良い人だ。だが、この人は有名人であることに一生なじめないのではないかと感じている。
沢木耕太郎は、藤圭子の引退前にインタビューをして、『流れ星ひとつ』という本を刊行している。沢木は、藤圭子を、水晶のように硬質で透明な精神を持ち、心のまっすぐは人だと述べている。
デビュー曲は「私が男になれたなら 私は女をすてないわ」で始まる「新宿の女」。代表曲は「赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさこの私 夢は夜ひらく」の「圭子の夢は夜ひらく」である。
藤圭子は「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったらまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」と語っていた。心の病をもっていた昭和の歌姫・藤圭子は、デビュー作品「新宿の女」の舞台である新宿で飛び降り自殺をしている。「歌があったからまあいいっか」という死に方だっただろうか。