生成AI日誌から:「PLAUD NOTE」、「Claude」、「ChatGPT」、「perplexity」

ラジオ深夜便」のインタビューで、生成AIの威力を試す。

1:「PLAUD NOTE」を使って、文字起こし。

2:「Claude」で、修正してもらおうとしたが、著作権の関係で、要約しか提示されなかった。

3:「perplexity」

4:「ChatGPT」を使って修正。インタビューのまとめらしくなった。

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1:PLAUD NOTE

日本総合研究所会長の 寺島実郎さんのお話です。寺島さんは 1947年 北海道を生まれ、1973年 大学院を卒業後、三井物産に入社、イラン革命アメリカ大使館選挙事件など 行われました。その後、ワシントン事務所長などを歴任し、2009年からは大学の学長も勤めています。
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一方、商社時代から、雑誌に20年以上にわたって連載するなど、執筆や言論活動にも大きな軸足を置いてきました。各種のメディアを通じて、日本の文化や文化につながっていきました。政治、経済、外交、宗教など幅広い分野で提言を続けてきた寺島さん。寺島さんを形作った日々はどのようなものだったのか伺いました。聞き手は桜井陽子アンカーです。去年4月に放送したインタビューです。
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今日はようこそお越しくださいました。どうもありがとうございます。ありがとうございます。よろしくお願いいたします。早速ですけれども。NHKの番組で、とても印象深い番組が終わりだと伺いました。例の大河ドラマっていうのがね、NHKで始まってですね、高校生だったんですけど、札幌のね。第1回のあの花の生涯っていうですね、ドラマっていうのは僕にとってやっぱり本当に衝撃的だったなぁって思い出すんですよね。
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というのは何て言いますか、歴史の見方を変えるっていうかね、その桜田文外の編っていうようなテーマっていうのはですね、ある時代の価値観からすれば、そのなんて言いますか、幕府の大老だった井伊直助がね、殺されて、明治っていう時代が開いていく時の、ある意味じゃあ井伊直助って悪役だったんですよね。それがね、歴史の見方っていうのを変えればですね、やはり日本を開国とかね、近代化だとかっていうような方向に持っていく、一つの天気に立ってた日本の人物なんだっていうことでね、
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実は花の障害だったというね、捉え方をしてきたのはNHK界なんて大河ドラマでやったと。歴史観としてこういう見方もあるよってんじゃなくてですね、大河ドラマでね、ある時代を一歩前に出てね、捉えてるテーマっていうことが多々あってですね、やっぱりあれがなんていうのかな、明治っていう時代に対する考え方を変えたようなと、僕自身もあるいは世の中のも。北海道の実路少年は衝撃を受けたんですね。いや本当にそうだったですよ。あのなんていうのかな、やっぱり歴史に対するものの見方っていうのは、今の言葉で言えば多元的でなきゃいけないとかね、
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多様な見方を吸収しなきゃいけないというきっかけになったですよね。ある教科書で教わったようなことだけじゃね、やっぱりダメなんだっていうことにね、ある意味気がつき始めたっていうかですね、やっぱり単純にものを考えちゃダメなんだっていうことをですね、相対化して考えるっていうのかな、そういう形になってきてるんです。私たちでね、やっぱり高校時代の我々にとってはですね、一つの衝撃でものを考えるきっかけになったなと思いますよね。その後の多彩なお仕事のね、ある意味一つの原点のような形だと思うんですけども、
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それにしてもですね、とにかくご本もたくさん書いてらっしゃいます。テレビ、ラジオにもご出演です。大学の学長もしてらっしゃいます。時間をですね、どこから燃出してらっしゃる、生まれるんでしょうか。僕は自分自身のアイデンティティはね、僕は総合商社っていう三菱さんという会社にずっと勤め上げたっていうのも僕の一つの柱なんですけど、経済の現場にいたっていうのがやっぱり僕の一番大きなアイデンティティです。今現在もね、そういう経済の現場の人たちと向き合って仕事してますし、
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次第にアカデミズムの方に軸足移して、今おっしゃっていただいた大学の学長もね、東京の郊外の多摩大学っていう大学の学長もやってるんですけども、まあいろんなことやってますよねってよく言われるんですけど、僕の中ではみんな繋がってましてね、みんな時代と向き合っている仕事っていうか、その中で実際に見ていることがシナジーになってですね、僕のものの見方や考え方っていうのを支えてくれてるっていう意味においてはね、ちょっともういろんなことに応策されてるっていう感じじゃなくてですね、一つのことを多様にやってみてるっていう感じで、
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ただその時間管理ってクソで言えばね、僕自身その辺がこだわりでもあるんですけども、要するに夜の無駄な時間は過ごさないっていうのがもう新入社員の頃からの僕のあれで、どうでしょうね、8時になるといかなる席からも駐座してたっていうか、最初は生意気な奴だなと先輩たちに追われてたんですけど、そのうち世の中って引っかかってくるもんで、先輩の方がですね、お前もう8時だぞと、帰った方がいいぞっていうぐらいの感じで、
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一種の生活習慣病みたいになってきてね。逆にそれがもう体のパターンですから、他の時間管理の方が逆に違和感を感じるっていう、それが本当に本音ですね。8時以降はどういう過ごし方?それはもう、僕の言葉でいう文献、つまり本を読んで自分のメモを作る。そして、明け方少し早めに起きて、今でもそうなんですけども、僕は今、いわなみの雑誌の世界っていうので、もう20数年にわたって連載続けてるんですけどね。
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そういう連載の作品を作るっていうのを朝は集中してて、夜はそのための素材としての文献をね、あるいは自分の体験、例えば1日で体験したこととか、面談した人間とのメモだとかっていうものを作ってですね、そういう時間管理ですかね、ざっくり言うと。じゃあ、ぼーっと何か音楽を聴いたり。あの映画を楽しむとそんな時間で。いやいやそれもやりますよ。結構あの3倍速人生ってよく最近若い人たちがね、早送りでもって映像を見るって言うけど、僕あの本を読む速さっていうのを見ては結構なんていうのかな、あの大概のものはですね、人の倍ぐらいのスピードで読めるって言う気してまして、あのご存知の今九段下にね、私の寺島文庫っていうまあ小さなライブラリーみたいなのができてるんですけども、それはもうもともとすると思わなかったんですけど、
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僕10万冊越そうとしてるんですけどね、あのなんていうのかな、どんどんどんどんその興味のある文献っていうのが増えてきてて、社会科学の分野の人間ですけども、ここのとこやっぱりAIだとかね、生命科学だとかですね、そのやっぱり時代生きていくためには吸収しなきゃいけない新しいジャンルの本の方がむしろ増えてるって感じますけどですね。伺いましたら、あの演科の本ですとか、美術の本とか。
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とにかく本当に多彩と言いましょうが、多様な本が。それはね、例えば戦後っていう時代を考えるときにね、やっぱりその、なんでふるさとと応答歌のような演歌が日本人の心を打ったのかっていうようなことを調べているうちにね、やはりどうしても必要になってくる文献っていうのが増えていってるっていうのがあれでね、音楽が特に好きだっていうわけでもないんだけど、そういう形でどんどんどんどん引き込まれていくっていうのかな、好奇心が強いんですかね。
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そういう寺島さんの本当、あの今日はですね、素顔と言いましょうか、どの辺りからですね、そういうことに向かってこられたのか伺っていきたいと思うんですけど、まずはお小さい頃のお話から伺いたいんですが、北海道の生まれなんですね。親父がね石炭の仕事してたもんですから、炭鉱のロームの関係の仕事だったんですけども、僕は戦争に敗れた2年後の1947年に、北海道のルモイの近くのですね、炭鉱で生まれたんですね。
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で、ところがその後ですね、一旦クシロの近くのシラヌカっていう地域の炭鉱に移って、そっから不思議なことに九州のチクホウにですね、小学校の2年から3年の期間ですけども行って、で、また再びソラチの炭鉱に戻って、小学校の高学年の時にサッポロっていう大きな町にですね、出てきた。ですから、小学校の高学年になるまでは全国の炭鉱を動いたって言いますかね。ちょうど僕はその戦後の日本の黒いダイヤと言われた時代から傾きかける炭鉱っていうところにね、
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少年時代いたんだなぁなんてことをですね、改めて思い出しますけども。ですから九州に行ったら北海道から来たって言ったらもう外国ですよ、当時の日本ではね。そうでしょうね。で、九州から北海道に戻ってきたって言ったら、またそれまた外国からやってきたようなやつっていうことで、まあ、あだ名が九州ってついたりね。北海道に着いたりですね、するような、だからその僕の一つの苦笑いですけども、カルチャーギャップに強いっていうのかな。つまりそうやって異文化の中をですね、まさにチビの時代にうろつき回ったっていうことがね、僕にとってはものすごい刺激にもなったし、
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あの、なんて言いますか、ある基本的な性格を作る上では、ある影響があったのかななんて最近思っちゃいますよね。今でこそね、笑顔でおっしゃいますけども、小さい頃はどうですか、転校生がね、例えば北海道から来たと、なんか言葉も違うし、どうだったんですか。いや、今の言葉で言えばいじめでしょうね。お袋が言った一言っていうのがね、その今んならと笑えるんだけども、山より大きな獅子は出ないよと言ったのを僕は思い出すんだけども、
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息子である僕がいじいじとね、くよくよとね、あの、すまらん愚痴言ったりですね、あの、いわゆるなんて言いますか、獅子狩れてるとですね、度胸据えろとね、腹くくって生きろって意味なんでしょうね。山より大きな獅子は出ないよって、確かに獅子ってのは猪とかそういうことなんだけども、山より大きな猪は出ないよと、確かに出っこないですよね。次元が違うんだから。そういう捉え方がね、形勢逆転っていうかですね。
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え、どういうことですか。いじめる側に回ったわけじゃないけれども、いつの間にかなんか、学校とかクラスでの存在感がね、あれして、なんとなく、要するに祭りあげられてましたよ、どこでも。あれですね、僕はいろんな意味で、例えば九州に行ってみてね、筑豊の炭鉱がワーッと傾きかけてですね、自分が目撃したものってのはご存知でしょうかね、筑豊の子供たちっていう写真集があるんですけども、
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どもんけんさんですね。どもんけんさんの。あそこに写っている写真こそ、僕自身が肉眼で目撃した。つまりわかりやすく言うと、学校行ってみたらね、いじめなんか虜してですね、弁当を持ってこれない子って写真があるんだけども、我慢して、要するに昼、みんなが弁当食ってるのに本読んでるわけですよね。初め、この人はお腹がいっぱいで飯食えないのかなっていうふうに単純に思ってたら、そうじゃなくて、我慢してね、みんなが食べてるのを食べれないんだっていう。
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いや僕はね、本当に驚いたのは、親がね、子供捨ててですね、両親ともにもうどっかに消えてしまって、小学校3年生ぐらいのお姉ちゃんがですね、妹、弟、食わせるために川でザリガニ取ってきて醤油で煮て夕飯食わしてるみたいなシーンをね、見ることになっちゃったわけですよ、九州行って。今、社会科学って言葉をさっき僕使いましたけども、世の中にはね、子供ごっこがいいんですよ。どうしようもない。
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今で言う不条理っていうんですか、許しがたい出来事があると。こんなことがあっていいのかっていうことが現実にあるんだと。親だって追い込まれると子供を捨てていなくなるんだと。それで子供がそうやって自分で生きていけなきゃいけないなんていうような状況が起こるんだっていうね。そういうシーンを見たことがね、ある意味じゃあ社会科学的問題意識の原点っていうんですか。僕はなんか世の中ってどうなってんだよと思うようなね、問題意識の原点に子供が起こる、小学校2、3年ですよ。
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今でも思い出しますね、その時のシーンを。ですからそれが僕のあれですね、ちくほうの思い出だしですね。そういう中でどうなんでしょうね、要するに逆境に耐えるなんて意識一切なかったけども。僕自身は何も恵まれてた立場だったというふうに思いますけれども。だけど世の中の矛盾だとか、おかしいこととかに対する問題意識が芽生え始める瞬間っていう。そういうのがね、ああいうことにつながっていくんだなって思い出しますよね。
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そここそ本当にまさに、まさに原点なんですね。でしょうね。でもそういう子どもたちに対して、お母様が非常にその尽力をされたと。日本赤十字の看護婦養成学校。広島からですね、一人東京に選ばれて出てきてですね、国際赤十字の資格でね、中国の大陸戦線を動いてたっていうぐらいのキャリアの人だったんですよ。めちゃくちゃ度胸な人だった人で、僕なんかよくは、なんて言いますか、こう、ケチくさいこと言うと笑い飛ばされてましたけどね。
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お母さんに。うん。だからそういう雰囲気の人だったからですね。ある意味では、さっきのカルチャーギャップも超える上でもね、お袋のインパクトっていうのがやっぱり引きずっているのかもしれませんね、どっかで。今で言うとあれですね、その炭鉱で働いている若い幸福の人たちが。子どもたちの奥さんだとか、子どもたちだとかを集めての、今でいう文化活動ですよね。文化祭みたいなものとか、運動会だとかね。そういうものを、炭鉱を挙げて盛り上げていくっていうのかな。
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そういう時の中心に踊り出て僕らやってましたよね。それがまあ、親父がその炭鉱、なぜそんなに炭鉱を動いたのかっていうことにもつながるんですけど、当時、労働紛争なんていうのがものすごい、あれ狂っててですね。資本と労働の対決なんていうのが三井三池闘争なんてあったの覚えてると思いますけども、そういう時に、その問題を抱えている炭鉱ね、そういうもう要するに労使紛争のあるような、そこに転勤していって、それを何か収めて、一つの流れを作っていくっていうことだったから、
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ある意味じゃ、夫婦力合わせてね、そういう炭鉱の近代化と言えば一番分かりやすいのかもしれないけども、戦後の日本のですね、そういうコミュニティというか、コミュニティのトラックにきちっと乗せていく活動をやっていたといえば、一番僕、的確だったんじゃないかなと思います。ですから、北海道の炭鉱で、親父が次の炭鉱に移る転勤、僕にとっては学校を変わっていくときに、駅に何百人という人が日の丸の旗で送ってくれた思いでありますよ。
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働いている方々がね。働いている人たちが。働いている人たちが。だから、そういうシーンというのが今でも浮かびますね。あの大学ですね、入学登場も学生運動、真っ只中でしたよね。1968やろうという言い方があるんですけどね。トランプと僕というのはトランプの方が1年上なんですけどね。つまり日本でいう段階の世代でね。つまりそれはどういうことかというとね。
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ちょうどね、60年安保で日本の政治の季節というのが一番盛り上がって、70年安保から、全教頭運動なんていう時代にバーンとぶつかったのが、僕の大学生活だったわけですよ。で、僕は大学が紛争でもってロックアウトになってね、1年以上も全く授業なんか行われないという状況の中で、一種の左翼運動と正面から向き合ってたわけですよ。で、僕は一般学生っていうね、当時のカテゴリーで言えば、
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つまりノンポリの一般学生を集めて、集めてっていうか集まってね、それなりに大学の変革とかね、世の中の在り方とかっていうものを、しっかり向き合おうっていう立場でやってたんですけども、左翼黄金時代のね、我々の位置づけっていうのは、一般学生なんていうのは右翼秩序派ってことになるわけですよ。だから、なかなかの覚悟のね、いることではなかったんですか?いや、ものすごいですよ。6回のね、徹夜のですよ、この深夜便だけど、もうそれこそ、丸一日続く学生大会ってやつをね、
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6回やりましたけどね、もう最初はその前に、全京都からの紙つぶてどころか石つぶてね。そしてその角材ヘルメットに取り囲まれてですね。いや何人か怪我もしたし、本当にご存知かと思いますが、あの当時わさび何人も死にましたからね、本当に物理的に。で、そういうある意味では、戦後日本の政治が一番熱気はらんでた時期ですよね。その右と左の対立の中で。で、その状況の中での大学生活だったですから。
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1年半くらいね、とにかく大学が閉鎖された。で、実は最後の、つまり機動隊が導入されてですね、カギかっこつきの大学の正常化っていうのが実現したらですね、僕の周りにいた仲間であったはずのですね、そこで1000人以上の人たちが僕を取り巻いてたんですよ、一般学生としてね。4年生、3年生中心に、一刻も早く世の中に右肩上がりになり始めた、要するに経済の時代に向けて就職決めて出て行こうって人たちがファーッとやってたんですよ。
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我々のグループの最後のティーチーンというのをやったら、集まった人はわずか6人だったんですよ。その時僕はですね、何だったんだこれはと。また思い直してですね、大学院に行ったんですね。というのは、ダメだと。もっと勉強しなきゃダメだと。本気で。そういうことで大学に行ったんですか。そうなんです。ですからもう、ある種の覚悟を決めてね、真剣に集中して勉強しようと。僕は大学院の時代は文部科学省、今なってますけど、統計数理研究所というところでアルバイトしながらですね、大学院に出たんですけども。
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で、全国のフィールドワークでね、学生を10人、20人引いてですね、例えば青森県六ヶ所村に半月、一月って踏み込み、九州の渋市に行ったことがあるし、倉敷に入り込んでとかって、つまり開発っていうものを抱えている地域に入って、住民意識の変化みたいなことを分析するっていう、社会医学のフィールドワークみたいなことを。そういうことをやりながら僕、大学院に通っていたわけですよ。その縁があってね、さてこれからどう生きようかという大学院の2年を終えてですね、
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で、大げさに言うと経済界の中心部みたいなところで日本を見てやりたいと思ってですね、それからまた大学院に戻ってもいいじゃねえかという、それぐらいの気分で実は僕三井部署に入っていったんですよ。ですから経営企画とか調査情報とかっていうところを商社で走ることになっちゃったんですけど、73年という積極的な年に入るわけですけども、日本資本主義の総本山に近いようなね、かつて財閥と言われたような企業の中にですね、
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バーンと踏み込んでいったっていうのがね、結局僕のある人生の方向性を決めちゃったようなものなんですよ。でも入っていかがでした?本当はね、ものすごいショックでね。またやっぱり大学院に戻って教団を立とうと思って、というのがね。それこそ、今年春党だ、なんだって話で、満額解凍って言葉が出てましたけども、つまり労働組合が賃上げ要求すると。ああ、それぐらいなら出してやるよって言うんで、
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満額解凍って、まさに僕の入った年ね、満額解凍だったんですよ。それでもう右肩上がりもものすごい状況の中で、で、そのいわゆる雰囲気がね、何しろ新入社員に勝手に使えって言うんで、束になってるタクシーチケットをくれましたからね。ああ、これはダメだと。こんなとこにいたら人間ダメになると。だからもうやっぱりもう少し真面目に、そのいわゆる教団に立とうと思ってね、
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辞めようと思ったんですよね。なんていうのかな、その、迷いながらこう、あれしてたらやっぱりね、こう何事もこう向き合ってみると、先輩っていうのはやっぱり。ありがたいもんでね。何だと、入ってきて半年ぐらいでね、持標確認、とんでもないだろうなと、生意気だと。で、俺の仕事手伝えっていうことになっちゃったわけです。で、その経営企画っていう時にね、それはお分かりだと思いますけど、73年っていうのは、いよいよ秋に、バーンと中東でですね、まあ、そのいわゆる中東戦争っていうのが始まって、
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第一石油危機っていうですね、で、その後オイルショックですよ。そのオイルショックにあたってね、今でも思い出しますけども、要するに、消費者批判っていうのは吹き荒れたんですよ。つまり、売り惜しみ買い溜め批判っていうことでね。で、こんなに物価が高くなっているのは、消費者のせいだなっていう話ですね。で、まあ、要するに、その人の仕事と一緒になって、要するに総合消費者の経営戦略っていうのにこう、引き込まれていくわけですよ。ところが、世の中がうまくいかなくてね、1979年にですね、
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ご存知のイラン革命っていうのがイランでバーンと起こってですね、ホメイニ革命ってやつですね、イスラム原理主義革命。当時、三井グループ、とりわけ三井物産はですね、謝恩をかけるということはありますけども、まあ要するに今でもですよ。ハーバードビジネススクールケーススタディとこれが出てくるんだけど、カントリーリスクのね、つまり戦争と革命に襲われた、呪われたプロジェクトとしてですね、イラン石油化学プロジェクトっていうのがですね、IJPCってやつがあったんですよ。で本当にですね、会社潰れるかもしれないということなんで、最終的に三井物産これによって7000億円を失ったんですよ。
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よく潰れなかったと思いますけどね。でそれで、おめえに革命が起こったイランの革命政権と向き合うために、交渉しなきゃいけないからですね、要するに情報活動っていうことでね、一体どういうふうに今後イランはなっていくのかとかですね、どういう、要するに戦いっていうか、要するに闘争していったらいいか、つまり交渉ですね、していったらいいかということになって、若蔵ですけど末席でね、当時アメリカのテヘランの大統領が、
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革命の勢力によって占拠されてるって事態が続いてたんですね。で、アメリカの国務省が人質救出タスクホースっていうのを作ってですね、5人のイラン問題専門家をノミネートしたっていう情報が入ってきた。で、その責任者の人からですね、呼び出されましてね、アメリカの5人の専門家ってやつに会ってこいっていうのがね、僕がそもそもこの問題に首突っ込むきっかけになったんですけど、南カルフォルニア大学からハーバードまでですね、
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5人のイラン専門家を尋ね歩くと、おっとり方がね、私中東の専門家でもなければですね、その、例えばそのプロジェクトの専門家でもなかったんだけども、バックアップの舞台でですね、どんなに僕が期待されたって意味じゃないんだけども、まあとにかく今後イランの革命政権と向き合わなきゃいけないから、アメリカ今どう考えてんのかですね、まあ探ってこいっていうぐらいの文脈でですね。5人と会ったんですね。 そのうち3人がユダヤ人だったんですよ。そのユダヤ人の人たちが口を揃えて僕に言ったのはね、
 00:26:09
三井っていうのは日本のコングロマリッドだと。 ところがその会社がですね、なんでね、イランイラクの国境戦場なんていうところ\に\謝恩をかけるようなそんなプロジェクトをやったんだと。我々はもう3年も5年も前からね、 イランに革命が起こるよっていう可能性のあることを 予言してたんだというレポートを見せられて、 びっくりですよ僕は。で生意気盛りですから、要するに経営会議に対してね、こういう謝恩をかけるようなプロジェクトを、 民族宗教入り乱れている中東なんかでやるんだったらですね、
 00:26:45
もっと戦略的な情報活動をしてですね、 準備しておくべきだったみたいなことを書いたんですね。そしたらここがまた三井ってかしら面白いところで、お前が行けってことになって、 僕がイスラエルに入りつくことになったわけですよ。で全くその…そのなんて都市空間で、その要するにイスラエルに張り付いていった時期があるんですね。誰一人と知り合いのいない状況でもってですね、イスラエルに入ってね、で、テルガビブ大学のシロア研究所っていうところなんですが、そこを一つの起点にしながらですね、
 00:27:16
イラン情報に対する活動っていうのを始めてたっていう時期がですね、僕にとってものすごくなんて言いますか、大きな転機になったんですね。今までね、まあ世の中に満身っていうこともありますけども、僕はですね、お預かしながらね、純風満帆とは言いませんけども、自分に対する過剰なまでの自信っていうのかな、俺は大したもんだっていう思いでね、胸そらしてたって言っても決して誇張じゃないってくらい、自信満々で持って走ってたって言ってもいい時期ですよ。
 00:27:46
ところが、イラン革命が起こっちゃって、自分自身がいいことになっちゃってイスラエルに行ってみて、言葉が通じないっていうのは英語が通じないっていう意味だけじゃないですよ。つまり、つまり、自分が持ってた世界観だとか、自分が持ってた知識なんてね、全く意味ないじゃないかと。もう少し本気でね、例えば中東と向き合うんなら、そのユダヤ教、それを根っこにしたキリスト教イスラム教って一体何なんだというものについてね、
 00:28:20
最小限度の勉強ぐらいしてなかったら相手とコミュニケーションなんかできねえんだという衝撃に愕然としたわけですよね。で、そういう中で、なんだよと、俺って結局頭でっかちだけだった人間でね、なんか優れてると思ってたけど全くダメじゃないかということでね、フィールドワークと文献活動で、文献を読み込む活動でもがいてたというかね。でもその時に折れないでフィールドワークをなさってたんですか?例えばイスラエルに行ってですね、要するに活動すること自体がどうやって生き延びるのかというようなもんですから、
 00:28:57
そのなんていうか、打ち引かれていられないわけですよ。本当に。だからそれぐらいね、我々って極端に平和なですね、安定した時代を生きれた世代なんですよね。で、そのことをね、ほとんど知らないままに生きてきた人間なんですよね。突然ね、それこそ重厚を突きつけられたっていうかね、お前は何考えてんだって言われたようなもんでね、サバイバルのためには必死で持って、しのがざるを得なかったっていうのが本当のところで、僕が強い人間だったからでもなんでもなくですね、
 00:29:30
まあ、ひたすらそうせざるを得なかったっていうのが本当の本音のところですよね。しのぐために何をしたんですか?人と向き合ってね、その人の本音っていうものをやっぱり引き出さなかったら情報活動はできないわけですよ。で、そのためには自分自身がやっぱり全く無知では相手にされませんよ、情報の世界では。あ、こいつも相当なもんだなっていうですね、自分が本気で話すに値する人間なのかっていうことをね、極めて短い時間に集中して引き出せるようになった。知るくらいの力がなかったら、情報の世界は生きられませんよね。
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それをやるためにもがいてたっていうことなんでしょうかね。だからそういうプロセスの中からね、例えば僕はイスラエルのテルワビュー大学のシルバー研究所に行ったってさっき言いましたけども、我々にとって例えばイランは今後どうなるんでしょうねなんてとぼけた話じゃなくて、イスラエルっていう国はね、情報でサバイバルゲーム出てますから、例えばホメイニシ。この人物についてですね、タスクフォースが組まれてるんですよ研究所に。例えばお医者さん、心理学者、言語学者、様々なジャンルの人がですね、タスクフォースで10人くらい。
 00:30:41
僕後ろでもっとオブザーバーで聞いてていいよっていう機会が得られるようになって、じーっと聞いてたらですね、例えば先週ホメイニシは何を食べたなんて情報活動的な情報ももちろん入ってるけども、例えば言語学者がね、この人は過去に4冊本書いてると。で、その言葉の使い方とかですね、ロジックの組み立てとか、こういう事態に直面した時に、この人間はこういう判断を下すっていうですね、傾向があるっていうのがね。
 00:31:11
で、心霊演者でこういう病人がいると、こういう病気をするにはこういう人たちの精神構造ってのはこういう傾向があるとかってのことを分析しててね、びっくりするようなレベルの情報がですね、生き返ってるわけですよ。だから僕はね、情報っていうのは本当に命がけなんだなと。で、イスラエルの人たちにとってみるとね、アラブの海って言い方しますけども、要するにイスラムに取り囲まれて、いつ地中海に追い落とされるかもしれないっていう状況の中でね、生き抜いててですね、そういう中で情報は彼らにとってはもうサバイバルファクターなんですよね。
 00:31:45
そのことを思い知らされたっていうのがイスラエル体験でありね。で、今度はイスラムの世界のワンガン三欲を動き回りですね、イラクを動きってそういうことからね、まあとにかく僕自身の物の見方や考え方っていうのが。鍛えられたということですね。一面的なものではなく、あらゆる層の、あらゆる方向のものを集めて情報とすると。それはご自身の仕事の最終的にはね、スタンスというか相関関係はあるし、きちんと抑えると。
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そこのところにつながっているような気がするので、いかがでしょうか。そうですね。いや、ですから、それこそ、アメリカから帰ってきた年が50歳なんですけども、約ね。10年いて、40代アメリカにいたんですね。で、戻ってきて、さっき申し上げたように30代は中東にイレビだったんですけど、40代はアメリカを起点にして、欧州とか世界を動いていたんですね。で、50代になって日本に戻ってきてですね。で、僕はこう思ったんですね。
 00:32:48
自分らに努力して、現場の情報、現地の情報に張り込んできたけれども、やっぱり歴史の脈絡だとか、世界史の脈絡だとかですね、地域史の脈絡だとか。歴史の脈絡の中で、もっと体系的に物事を見抜くことが必要だと。つまり、歴史の脈絡というものをどこまで深く体系的に整理できているかが、物事を見抜く鍵なんですよね。そんなもんだから、僕自身もやっぱり自分の歴史軸を踏み固めなきゃいけないというのは、今現在もストラッグ。
 00:33:21
まずその20世紀、それから戦後日本史、今近代史というところにですね、もうようやくですね、一歩一歩這うように、自分自身の歴史に対する見方を踏み固め直しているというのが本当のところでしょうな。今でもその最中。まだ続いているんですよ、それって。先ほども少し出ましたけれども、そういう意味でその歴史軸をですね、踏み固める意味で非常にやっぱり拠点となっているのが寺島文庫ですね、東京区大使団や。
 00:33:55
今度は有用性と言いましょうが、とにかく愛してもいるし必要と。アナログ世代だからって意味じゃなくて、僕は本気でそう思いますけどね、これだけネットの時代であり、例えば図書館の管理だってね、コンピュータ検索っていう時代だけれども、やっぱり廃下している本っていうのはすごく重要でね、例えば、僕のアメリカっていうコーナー見ていただくんですけども、原爆について開発した人、それからその原爆の被害を受けた側の広島長崎に関わっている人、
 00:34:30
それからさらにですね、いわゆる原爆の開発に関わった科学者の立場からの、党科に関わった政治家の判断に関わる本だとかですね、そういう類のものを重層的に一つの書家の中に置いてですね、じーっと眺めながらこう、ものを考えるとですね、そういえばあの本とあの本とのつながりってのはこうだよなとかですね、見え方が変わってくるっていうか、例えば、原爆っていうことの核ってことで、
 00:35:01
切り口にしてもね。それって、コンピューターで検索エンジンかけてですね、タイトルだけ見たりね、実際の本を手にしないでもったりするのと、まずれで、イマジネーションが違うというかですね。僕は物理的に配下されている本というのがものすごく大事だというかですね、自分が物を書くにも、物を整理するにもですね。寺島さんの活動の拠点だと思うんですけども、重層的、体系的なご本、それはまさしく思考のね、やはり重層的、体系的な考え方って言いましょうかね、そこに繋がっていきますよね。
 00:35:41
全くそうでですね、僕が大事だと思うのは、自分がね、要するに自分の努力や向上心じゃなくて、ある時代のテーマを背負って海外を動くことになっちゃったと。見ちゃったんですね、いろんなこと。中東から、欧州から、アジアから、中南米から。アメリカまでね。見たことの責任っていうのかな。自分が見たっていう断片的な体験じゃなくてね、それがどういう意味を持つのかっていう体系化していくって感じね。物事の繋がりを組み立てていくっていうのがね、見た人の責任だと思ってるんですよ。 だから例えばね、僕はあの。
 00:36:19
あなたどういう世界観持ってるんですかっていう時に、そういうことなんですけど、ネットワーク型世界観って言い方するんですけどね、物事の繋がりの中で考えると。例えばイギリスもイギリスの本土単体で考えるんじゃなくて、英連邦ネットワークの中で考えるってこと。今度イギリスがTPPに入ったって言うんだけど、日本人にしてみるとなんでアジアの貿易の自由化の仕組みにイギリス入ってくるんだって思いますが、TPPっていうのは元々シンガポールだとかですね、いわゆる英連邦ネットワークの人たちが最初にTPPをアジアで、つまり4カ国で作ったんですよ。
 00:36:54
ですからそれがイギリスに繋がったと考えればね、これユニオンジャックの矢って僕は呼んでるんだけど。イギリスを単体と考えずにですね、ネットワークで捉えるという見方で世界を見るとですね、見え方変わってきますよと。つまりそういう物事を繋がりで考えるという習性がですね、僕自身のフィールドワークと文献研究の中で世界の見え方としてね、僕自身に身についてきたり、結論的に僕が身につけたものって何だろうかって自問自答してみるとそういうことなのかなって思いますけどね。
 00:37:31
歩んできた道の中で、攻撃の中から生まれた死者ということですよね。ご提言もされているわけですけど、若い人への何か提言ってありますか。若い人たちというのがまたさらにね、ITで武装し、SNS武装した世代というのが育ってきて、それがまた新しい可能性を切り開いてくれるということを僕は大いに期待するけれども、であるが故に学生と昔に。
 00:38:02
同時にですね、やっぱり日本という国が世界の中でも割れに見るぐらいですね、幸運現象って言うんですけど、カイコニのようなイメージですね。このある幸せな空間の中に閉じ込められているのがためにですね、あの、なんて言いますか、こう、別格って言うこともありますけど、別格なぐらいですね、ある面じゃ、幸せな幻想の中を生きているというかですね、要するに世界の抱えている不条理だとかね、それから我々が解決していかなきゃいけないテーマなんかについて、
 00:38:36
本当にさっきだって問題意識を持っている人間というのが育つのは非常に難しい環境の中にあるのが日本だと思うんですね。しかもどんどん内向きになってきている、日本がですね。今ぐらい日本人が内向きになっているっていうのかな。しかも高齢者もですね、どんどん生活保持主義ということで、自分の身を守る方向にですね、関心領域をどんどんどんどん狭めていっているというね。で、やむを得ないという分もよくわかるけれども、ここでやはりですね、自分の果たすべき役割についてもっと真剣に考えないといけないところに来ているのかなって思いますよね。
 00:39:13
先ほどその国運現象と言いましたけれども、一方でその格差と分断のね、時代、なかなかやっぱりひどく厳しい時代をね、若い人たち生きていると、そういう実態もありますよね。うん。それはどんなふうにお考えですか。教育という視点から言うとですね、なんて言ってもですね、教育の一番重要なポイントは自覚を持たせることなんですよ。つまり、カルティベートしてね、その人の持っているポテンシャルを借り立ててあげるっていうのかな。
 00:39:44
で、そのために、つまりですね、誰かが手を差し伸べてくれて、人生っていうものが組み立てられるものじゃないっていうかですね。で、やっぱり環境がいかに厳しくてもですね、その中で自分自身の問題意識を研ぎ澄ましていかないとダメだと。AIが進んできてですね、スマホ人生になってきて、つまりこれ思考の外部化ってんですけども、つまり自分の頭で考えてることと、AIが考えてくれたことと、検索エンジンかけてですね、情報から得られることとか混在してきてるからですね、
 00:40:22
自分が本気で考えたことじゃないことでも、情報らしきものを手にできるんですよね。だから本当の意味でものすごく弱いっていうかですね、環境が大きく変わった時に持ちこたえていけるような地の基盤を作るって言ったら、逆に言えば今ほど難しい時期ないんじゃないかなと、いつの間にか思考を外部に委ねちゃってる、自分が考えたかのように錯覚を起こしてるっていうかですね、そういう状況を跳ね返していくだけのね、たくましい知的基盤を作るためには、やっぱりこれってですね、紙に自分のペンでね、自分が考えたこと、
 00:41:00
自分が自分の目で読み込んだアナログな文字をしっかり見つめながら、行間を見つめて物事を考えるという言い方がありますけれども、それをやらないと本当の意味でのクリエイティブな思考回路というのは育たないというふうに僕は思います。いろいろ伺ってもらいましたけれども、今後についてはいかがでいらっしゃいますか。ここ自身が今考えていらっしゃる。いや僕はですね、もういい都市格好になっているんですけれども、いやこの間から僕ちょっと意図的に90代のね、初先輩に、例えば飯月裕之さんにしてはですね、
 00:41:35
山織哲夫という宗教の大先生ですけど、本気で向き合って話をしてみる機会を与えられてですね、やっぱりあの先達とはあらまほしきものかなというかですね、やはり戦後なる時代をね、僕の15年、20年前を生きて、全く違った見せんで戦後と関わってきていると。僕は段階の世代として戦後と関わってきている。その息子たちの世代がその下に、また段階ジュニアみたいな形で育ってきてるんだけども、我々もですね、実は子どもたちにね、
 00:42:11
君は自由にしてていいんだよっていうメッセージぐらいしか語れなかったとも言えるんですね。で、その連中が今度は自分の頭で考えてどういう社会を作ろうとしてくるのかね。まあそれをですね、見つめながらもね、まだまだですね、このいわゆる僕はですね、世代として自分の目撃してきたことをつなぐ責任とかね、あるいは自分が世界を動くことをですね、与えられた世代っていうのかな。その要するにその与えられた世代の自分自身の目撃したものを体系化して理論化して、
 00:42:46
残していかなきゃいけない役割とかっていうのはまだまだね、まだ著についたばかりで、これからこそですね、より本気でもってギアを入れなきゃいけないなって思ってるのが全く本音ですね。このような形で拝読、拝見させていただきます。本当にどうもありがとうございました。

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2:Claude

寺島実郎氏は1947年、北海道の炭鉱で生まれました。彼の父親は炭鉱関連の仕事に従事しており、幼少期は北海道から九州まで、日本の主要な炭鉱地域を転々としました。この経験は、寺島氏に多様な文化への適応力と社会の矛盾に対する鋭い洞察力をもたらしました。

1968年、大学入学時は学生運動の真っ只中でした。寺島氏は一般学生としての立場を取りながらも、大学改革や社会のあり方について真剣に向き合いました。大学紛争後、より深い学問的探求を求めて大学院に進学し、全国各地でフィールドワークを行いました。

1973年、三井物産に入社。経営企画部門で働く中、1979年のイラン革命を契機に中東問題に深く関わることになります。イスラエルでの経験は、寺島氏の世界観を大きく変えるきっかけとなりました。情報活動の重要性と、自身の知識の不足を痛感し、必死に学び、成長していきました。

40代はアメリカを拠点に世界を飛び回り、50代で日本に戻った後は、自身の経験を歴史の文脈の中で体系化することに力を注いでいます。寺島氏は、見聞きしたことの責任を強く感じ、それらを体系化し、理論化して後世に残すことを自身の使命と考えています。

現代の若者に対して寺島氏は、幸福な空間に閉じこもりがちな日本社会の中で、世界の不条理や解決すべき課題に対する問題意識を持つことの難しさを指摓しています。同時に、AIやスマートフォンの普及による「思考の外部化」の危険性を警告し、自らの頭で考え、アナログな方法で知識を吸収することの重要性を説いています。

寺島氏は、自身の世代が目撃してきたことを次の世代につなぐ責任があると感じており、これからも精力的に活動を続けていく決意を示しています。

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3:ChatGPT(インタビューをきちんとした文章に)

寺島さんは1947年に北海道で生まれ、1973年に大学院を卒業後、三井物産に入社されました。イラン革命アメリカ大使館占拠事件など、国際的な出来事に直面し、後にはワシントン事務所長を歴任しました。2009年からは大学学長も務められています。

商社勤務時代から20年以上にわたり雑誌に連載を持つなど、執筆や言論活動にも積極的に取り組んでこられました。政治、経済、外交、宗教など、多岐にわたる分野で提言を行ってきた寺島さんに、彼の視点が形成された背景についてお伺いしました。このインタビューは昨年4月に放送されたものです。聞き手は桜井陽子アンカーです。

寺島さん、今日はお越しいただき、ありがとうございます。早速ですが、寺島さんにとって、NHK大河ドラマ花の生涯』が非常に印象的だったとお聞きしました。この作品は、幕末の桜田門外の変をテーマにしています。当時、高校生だった私は、この作品を通して歴史の見方が大きく変わったと感じました。井伊直弼が暗殺され、明治時代が幕を開けるといった流れが描かれていますが、それまで悪役とされていた井伊直弼が、日本の近代化における重要な人物として描かれていたのです。

このドラマを通して、私は歴史を多面的に捉える必要性を感じました。それまで教科書で教えられていた単一的な視点では、歴史の真実を十分に理解できないことに気づかされました。

寺島さんは多忙な日々を送りながらも、大学学長として、さらに執筆活動やメディア出演もされています。そんな中で、どうやって時間を捻出しているのでしょうか?

寺島さんは、総合商社での経験が彼のアイデンティティの一部であり、経済の現場で培った視点が彼の考え方の基盤となっていると語ります。また、彼は夜の時間を無駄にしないことを徹底しており、8時以降は自宅に戻り、読書や執筆に集中しているそうです。特に、長年にわたり執筆を続けている雑誌の連載は、朝の集中時間に書き上げているとのことです。

寺島さんは、興味を持った分野について積極的に学び続け、近年ではAIや生命科学などの新しいジャンルにも触れています。

寺島さんは、ただ新しいことに興味を持つだけでなく、深く探求し、関連する書籍や文献を幅広く取り入れています。例えば、戦後の日本社会を考える際に、なぜ演歌が日本人の心に響いたのかを研究するために、音楽や文化に関連する本も多く読むようになったそうです。彼の好奇心は旺盛で、いつの間にかその分野を深く掘り下げていく過程で、多くの知識を得ています。

また、寺島さんのルーツについても伺いました。1947年、戦後間もない北海道の炭鉱で生まれ、炭鉱労働者の家庭で育ちました。その後、彼の家族は九州の筑豊へ移り住み、再び北海道に戻るという、子供時代から様々な地域を経験しました。この転校生活の中で、カルチャーギャップに強くなるという性格が培われたそうです。当時、北海道や九州のような異なる文化圏での暮らしは、彼に大きな刺激を与え、異文化理解の素地を育んだと振り返っています。

彼が幼少期に経験したいじめについても語られました。九州に転校した当初、北海道から来たというだけで異質視され、いじめの対象になりましたが、寺島さんは「山より大きな獅子は出ない」という母親の言葉に励まされ、逆境を乗り越えました。この言葉は、彼に「恐れるものはない」という心構えを与え、その後の人生にも大きな影響を与えたと語っています。

寺島さんの少年時代の経験は、後の社会問題への関心や、格差や不条理に対する問題意識の芽生えに繋がりました。特に、筑豊で目撃した、貧しい家庭の子供たちが弁当を持たずに学校に通う光景や、親がいなくなった子供たちが自力で生き延びる姿は、寺島さんの社会科学的な視点の原点となりました。こうした経験が、彼のその後の仕事や研究に大きな影響を与えたのです。

寺島さんの大学生活は、1960年代後半から1970年代にかけての激動の時代でした。学生運動が盛んだった時期に大学に通い、彼自身もその運動に巻き込まれながら、一般学生として自分の立場を確立しようと努力しました。彼は「ノンポリ」として、政治的に中立の立場を取り、大学の改革や社会の在り方について真剣に考えました。しかし、彼が率いた一般学生のグループは、激しい対立の中で数を減らし、最後にはわずか数人が残るだけでした。

その経験を経て、寺島さんは「もっと学ばなければならない」と決意し、大学院に進学します。大学院時代には、統計数理研究所でアルバイトをしながら、フィールドワークを通じて地域社会の変化を研究しました。青森県六ヶ所村や九州の渋市、倉敷などの地域に赴き、開発と住民意識の変化を分析する社会科学的な調査を行いました。

その後、彼は経済界でのキャリアを築くため、三井物産に入社しました。入社後、彼は経営企画や調査情報の部門で活躍し、オイルショックイラン革命といった国際的な出来事に直面しました。特に、イランでの石油化学プロジェクトが革命によって大きな損失を被った際、寺島さんはアメリカの中東専門家と情報交換を行い、戦略的な情報活動の重要性を痛感しました。

この経験を通じて、彼はイスラエルでの情報収集にも従事するようになり、テルアビブ大学の研究所を拠点にイランに関する情報を集めました。この時期、彼は初めて自身の限界に直面し、自分の知識や世界観がいかに不十分であるかを痛感しました。そこで、彼は中東やユダヤ教イスラム教などの宗教や文化について深く学び、真のコミュニケーションには相手の背景を理解する必要があることを実感しました。

寺島さんのイスラエルでの経験は、彼の視野を広げ、物事を多面的に捉える能力を養いました。情報を収集する際には、単に表面的な事実を集めるのではなく、相手の思考や行動の背景にある心理や文化を深く理解することが重要だと感じたそうです。

彼の経験を通じて得た知識や洞察は、商社での戦略的な仕事に大きな影響を与え、その後の人生にもつながっていきました。

イスラエルでの経験を通じて、寺島さんは単なる知識や情報の蓄積だけでは不十分であり、物事の背景や根本的な考え方を理解することの重要性を痛感しました。彼は、そこで得た教訓をもとに、情報の収集と分析に一層の努力を重ねていきました。イスラエルという国家自体が、情報をサバイバルツールとして活用し、周囲の危険な環境に対抗している姿を目の当たりにし、彼自身もその厳しい現実を体感したのです。

また、寺島さんは40代の10年間をアメリカで過ごし、欧州や他の地域も含めて広く世界を見て回りました。そして、50代を迎えて日本に帰国した際、彼は改めて「歴史の脈絡」の重要性に気づきます。彼は「歴史をどう体系的に捉えるか」が、物事を見抜くための鍵であると考えました。世界史や地域史、さらには戦後日本史をより深く理解することで、物事の本質を見抜く力が養われると確信しました。

寺島さんは、こうした視点を持ちながら、東京の九段下に設立された寺島文庫を拠点に、多くの文献を集めて研究を続けています。彼のコレクションには、歴史的な事件や人物に関連する本が数多く含まれており、原爆の開発や被害に関わる資料も含まれています。これらの資料をじっくりと手に取って読むことで、ネット検索やデジタルデータでは得られない「物事のつながり」を見出し、新たな視点を得ることができると彼は語ります。

寺島さんはまた、自分自身が目撃してきた世界の現実や歴史的な出来事について、「見た者の責任」として、それを体系的に整理し、後世に伝えることが自分の役割だと感じています。彼が培った「ネットワーク型世界観」は、物事を一つの点ではなく、多くの要素が絡み合うネットワークとして捉えることの重要性を教えてくれます。例えば、イギリスを単独の国として見るのではなく、英連邦のネットワークの一部として捉えることで、国際的な関係性がより明確になるといった視点です。

彼は、そうした広い視点を持つことが、情報の本質を捉えるために不可欠だと考えています。そして、その視点を若い世代にも伝えたいと強調します。若者たちは、ITやSNSといった新しいツールを駆使して、さらに新しい可能性を切り開く力を持っていますが、一方で、現代の日本は「幸運の中に閉じ込められている」と寺島さんは感じています。彼は、日本が他国の抱える不条理や課題に対する問題意識を持ちにくい環境にあることを懸念しています。

特に、世界中で格差や分断が深刻化している時代において、若い世代がこうした問題に対する自覚を持つことが大切だと寺島さんは考えています。彼は、教育の最も重要なポイントは「自覚を持たせること」だと言います。どんなに厳しい環境にあっても、自分の中にある問題意識を研ぎ澄ませ、深く考える力を育むことが必要だと語ります。

寺島さんは、AIの普及やスマホの利用が進む中で、人々が「思考の外部化」を進めることに警鐘を鳴らしています。自分で考えることが減り、AIや検索エンジンに頼ることで、思考が外部に委ねられ、本当に自分で考えたのかどうかの区別が曖昧になっている現状を危惧しています。寺島さんは、クリエイティブな思考回路を育むためには、自分の手で書き、自分の目で文献を読み込み、行間を読み解くアナログな作業が重要だと強調します。

インタビューの最後に、今後の活動について伺うと、寺島さんは「まだまだ本気で取り組むべきことが多い」と答えました。90代の先輩方と向き合いながら、自身の世代が果たすべき責任を感じ、これからも目撃した事実を体系化し、後世に伝えるための努力を続けていく決意を新たにしているようです。

寺島さんは、自分の目撃してきた世界の出来事を、単なる個人的な体験としてではなく、それがどのように世界の大きな流れとつながっているのかを整理し、理論化していくことが、自分の世代の役割だと考えています。そのため、彼はこれからも文献研究とフィールドワークを続け、多面的な視点から世界を捉えようとしています。

このインタビューを通じて、寺島さんの豊富な経験と、彼が抱く広い視野が浮き彫りになりました。彼の知識や洞察は、私たちにとって大きな示唆を与えるものです。そして、彼がこれからも果敢に挑戦し続ける姿勢は、私たちにとって大きな励みとなることでしょう。


寺島さんの話は、単なる過去の振り返りにとどまらず、彼がこれからも新たな挑戦に取り組む決意を示しています。彼は、自身の世代が果たすべき役割について強い意識を持ち、その責任を全うするために今後も精力的に活動していくと語っています。

寺島さんが特に強調しているのは、歴史を体系的に捉える視点です。現代に生きる私たちは、情報があふれる時代にいるものの、表面的な知識に頼ることが多くなっています。彼はその中で、歴史の脈絡や物事のつながりを深く理解することの重要性を強調します。これは、単に知識を詰め込むだけではなく、その背景にある本質を見抜くために不可欠な視点です。

さらに、寺島さんは「見た者の責任」という考え方を重視しています。彼が若い頃から各地で目撃してきた様々な出来事や社会問題を、単なる個人的な経験として終わらせるのではなく、それらをどう整理し、未来に役立てるかを常に考えているのです。これは、寺島さんのフィールドワークや文献研究を支える重要なモチベーションとなっていることでしょう。

また、寺島文庫の設立や運営も、彼の哲学を具現化するための一環です。彼は、アナログな本の価値を強調し、現代のデジタル情報社会にあっても、物理的に手に取って読むことの大切さを訴えています。特に、原爆に関連する書籍や文献を収集し、それらを整理して体系化することで、より深い理解を得ることができると考えています。このような資料の蓄積は、寺島さん自身の思考を支え、彼の提言や分析の基盤となっています。

さらに、寺島さんは未来の世代へのメッセージを繰り返し発信しています。若者たちがITやSNSを駆使して新しい可能性を開拓していくことを期待する一方で、彼らが自分自身で考える力を持ち続けることの重要性を強く訴えています。AIが進化し、情報が簡単に手に入る時代だからこそ、自分の頭でしっかりと考え、物事を整理していく力がより一層必要であると寺島さんは感じています。

教育の観点からも、寺島さんは人々に自覚を持たせ、彼らの潜在能力を引き出すことが大切だと考えています。彼は、自らの努力や問題意識を研ぎ澄ませることで、厳しい環境下でも自分の進むべき道を見つけることができると信じています。この考えは、彼自身の人生経験に基づくものであり、特に彼が様々な困難に直面し、それを乗り越えてきた過程から生まれたものです。

最後に、寺島さんは自身の年齢についても触れつつ、「まだまだ挑戦すべきことがたくさんある」と語っています。彼は90代の先輩方と接する中で、自分もまだ果たすべき役割が多く残っていることを再確認し、これからも一層真剣に取り組む意欲を示しています。歴史の目撃者としての役割を果たし、自らの経験を次世代に引き継ぐことを、彼は大きな使命と感じています。

寺島さんの話を通じて、彼が持つ広い視野と深い洞察が改めて浮き彫りになりました。そして、その知識や経験は、これからも多くの人々に影響を与え続けることでしょう。彼のこれまでの歩みや考え方は、私たちにとって多くの示唆を与え、今後の社会を見据えるための貴重な指針となることは間違いありません。寺島さんの言葉は、未来を見据える上での重要なメッセージとして、深く心に刻まれることでしょう。

寺島さんのメッセージは、その広い視野と深い洞察に裏打ちされたものであり、特に次世代に向けた提言として大変重要です。彼のような世界を実際に見てきた「目撃者」が果たすべき役割は、単なる過去の記録や知識の伝達ではなく、それをどう次の世代に役立てるかを考えることです。

寺島さんは、世界各地で目撃してきた出来事や国際的な経験を整理し、それを体系化して理論化することで、次の世代に伝えようとしています。これは、単なる知識の継承に留まらず、現代の問題を解決するための重要な手がかりを提供することでもあります。特に、日本が今直面している課題について、寺島さんは内向きになりがちな社会の風潮を憂慮しており、国際的な視点を持って行動することが今後の日本にとって重要であると強調しています。

彼はまた、若い世代に対して、自分の考えをしっかりと持つことの重要性を繰り返し訴えています。AIやスマートフォンが発達し、情報が簡単に手に入る現代において、思考が外部化される危険性が高まっていると感じています。検索エンジンで得られた情報やAIが提示する解答が、そのまま自分の考えとなってしまう現象に警鐘を鳴らし、そうした便利さの中でも自分自身の思考力を鍛えることが必要だと述べています。

寺島さんは、紙に自分の手で書くこと、そして本を自らの目で読み、考えることの大切さを強調しています。アナログな手法は、現代のデジタル時代とは対極にあるように見えるかもしれませんが、彼はそこにこそ深い思考の基盤があると考えています。特に、彼が蓄積している膨大な文献や書籍の中から、じっくりと考えを練り上げることで、新たな発見や視点を得ることができると語ります。

このような考え方は、寺島さんが若い頃に身をもって体験してきた困難や挑戦から生まれたものです。彼は、異文化の中でカルチャーギャップを経験し、多様な価値観と向き合いながら成長してきました。その過程で得た視点や知識は、彼自身の思考の基盤を形成し、今の時代においても貴重な洞察を提供しています。

さらに、彼は今後も、自分の経験を次世代に伝えるための努力を続けると決意しています。彼が「まだまだやるべきことがある」と語る背景には、彼自身がこれまで蓄えてきた知識や経験を、どのようにして次世代に活かすかという使命感が強く根付いています。彼は、自分の人生を単なる過去の振り返りとしてではなく、これからの日本社会、さらには世界に向けての貢献として捉えているのです。

寺島さんのこうした視点は、現在の日本が直面している多くの課題にも応用できるものです。彼が語る「ネットワーク型世界観」は、物事を個別に見るのではなく、全体のつながりの中で理解するというアプローチであり、これは現代のグローバル化する社会においてますます重要となっています。日本が国際社会の一員として、また、歴史の中で果たすべき役割を認識するためには、このような多面的な視点が不可欠です。

寺島さんが提唱する「歴史を体系的に捉える」という考え方は、私たちが過去を学び、未来に活かすための重要な指針となります。現代社会における情報の多さやスピードに惑わされず、しっかりと自分の足で立ち、自分の目で見て考えることが求められる時代です。寺島さんの経験や知識は、まさにそのための羅針盤となることでしょう。

彼のメッセージは、特に若い世代に向けた強いエールとして響きます。現代の若者が自分の考えを持ち、世界と向き合いながら、自分の役割を見つけていくためには、寺島さんが示すような深い思考と広い視野が必要です。彼が歩んできた道は、現代に生きる私たちにとっても大きな指針となり、未来への光を示してくれるでしょう。

寺島さんは、これからも自分の経験と知識を次世代に伝え、社会に対する提言を続けていくことでしょう。そして、その歩みは、単に彼個人のものではなく、私たち全員にとって大きな学びと示唆を与えるものです。彼の言葉は、これからの社会を築く上で、重要な羅針盤として私たちの心に残り続けることでしょう。

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父の日のプレゼントでもらったゲタを履きつぶした。

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朝:ヨガで汗をかく。

夜:編集長会議。その後、都築さんと打合せ。

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「名言との対話」9月7日。色川大吉「同時代史は、、、めいめいが『自分史』として書かねばならないものだとおもう」

色川 大吉(いろかわ だいきち、1925年大正14年〉7月23日 - 2021年令和3年〉9月7日)は、日本歴史家 享年96。

千葉県佐原市出身。旧制第二高等学校から東京帝大文学部に入学。学徒出陣。復員後、1948年に卒業。東京経済大学の講師を経て、1967年教授。亡くなる前日、親友で色川を介護していた上野千鶴子が、死後の各種手続きをするために婚姻届を提出し、わずか15時間の関係にあったという資料もみつけた(未確認)。

色川は1968年に多摩史研究会を結成し、市民の手による地域史研究の先駆となる。その成果は『明治精神史』(1964年)にまとめられた。「色川史学」と呼ばれた。

色川大吉『ある昭和史ー自分史の試み』(中公文庫)を何度か読んでいる。自分の体験とからめながら日本近代史を描こうとした作品である。色川は1925年生まれ。私の父は1923年、母は1927年だから、同世代である。父母がどのような時代を生きたのかがよくわかった。「常民」の立場から書かれ、1975年に刊行されたこの名著は「自分史」ブームを出現させたことで有名である。

太平洋戦争では男子4人に1人が出征。2世帯に1人以上が兵士を送り出した、300万人の日本人が死んだ。5世帯に1人が死んだ。2000万人以上の人々が涙にくれた。1500万人が家を失った。この数字の背後にある庶民の体験をつづった作品だが、この当時の人々にはそれぞれのドラマがあった。著者によれば、歴史とはさまざまな評価や情念や視点を組み合わせながら、同時にそれらを越えてある方向に向かおうとする非情な趨勢を見定めることである。

  • 庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民=私の「個人史」を足場にして全体の状況を浮かび上らせようと試みた。、、、、同時代史は、、、めいめいが「自分史」として書かねばならないものだとおもう。
  • その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか、そこに自分の存在証明(アイデンティティ)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?と。
  • 人は自分の小さな知見と全体史とのあいあだの大きな齟齬に気づいてはじめて、歴史意識をみずからのものにする。
  • 個人的なものと全体的なもの、主観的なものと客観的なもの、内在的なものと超越的なものとの矛盾や齟齬や二律背反や関連を認識し、自己を相対化してとらえる眼を獲得することこそ歴史を学ぶ意味ではないのか。
  • 黙々と社会の底辺に生きた常民的な人びとを通して、一時代の歴史を書くことができなかと考える。
  • 地方に、底辺に、野に、埋もれている人民のすぐれた師たちを掘り起し、顕彰し、現代によみがえらせ、その力を借りて未来を拓こうとした仕事ではなかったのか。(橋本義夫の仕事)

 2023年に色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房)を浴読した。ある一人の明治の常民の一生を追いながら、明治の可能性を追った力作だ。神保町の古本屋で手に入れた本だ。

明治人には精神的な骨格と変革期の焦燥がある。それを体現した無数の宝の一人が北村透谷と同年生まれの恋敵・平野友輔だ。立身出世型ではない、在村活動家型の人間像の一人の地方知識人である。平野の生涯は「一篇の優しい長い詩」であると歴史家である色川大吉は「追記」で総括している。こういう明治人が全国に無数にいた。それが明治国家を築いたのだ。

平野友輔(1857年生)は町医者、政治家、郷土(三多摩)の指導者として生涯を送った。この本では、無名の主人公・平野を軸に交錯した有名、無名の明治人が登場する。石坂昌孝(自由民権)。北村透谷(婚約者・美那子と結婚)。福沢諭吉(言論人)。森鴎外(東大医学部)。坪内逍遥(一級上の落第生)。北村透谷。広瀬淡窓(愛吟)。奥宮健之(陽明学)。矢島楫子婦人矯風会)。徳富蘇峰(平民主義)。内村鑑三キリスト者)。二宮尊徳(東洋道徳)。ベルツ(医師)。平野藤子(妻・看護婦。100歳)。海老名弾正(同志社総長)。明治天皇(大帝)。石川啄木(詩人)。有島武郎(文学者)、、、。

平野友輔をあらわす言葉を拾ってみよう。ーーー正義感。民権家。東洋思想。首尾一貫した生活態度。たゆまざる人。ナショナリズム。愚痴を言わない明治の人。質素。勤勉家・自己制御と人格鍛錬。教養と克己。聖書と論語。和魂洋才。墓はいらない。享年72。湘南地方人格の第一人者。平野友輔は、東洋の思想と西洋の文化を体現した、明治の知識人の一つの典型だ。こういう人たちが全国にいたことが近代日本の幸運だった。

平野友輔というあまり有名でもない藤沢出身の一人の人物の伝記的作品であるが、平野を中心に置きながら恋敵・北村透谷、東大医学部の同級生・森鴎外、地方豪農自由民権運動を担った石坂昌孝、年下ながらその思想に私淑していた内村鑑三らとのとつながりも紹介しながら、明治人の精神を明らかにしようとした研究である。

平野友輔は安政4年(1857) 藤沢宿坂戸の町人の長男に生まれる。小笠原東陽の 耕余塾 に学び,医学を志し,明治12年東京大学医学部にすすむ。このころは自由民権運動中であり,卒業後に八王子に医院を開業した時も,多摩の民権グループ に加わって自由党員として積極的に行動していた。明治17年10月の自由党解党には,神奈川県(当時三多摩地区は神奈川県 )党員総代表として参加した。明治19年,藤沢の長後の羽根沢屋(博物館がある)で医院を開業した。明治22年には,故郷の自宅に医院を開業し, 明治35年には衆議院議員に当選している。昭和3年4月3日永眠。

相模と多摩を中心に活躍した人物が数多くこの書には登場する。こういったよき常民だった平野のような人物が無数に埋もれていると想像する色川は、文化的蓄積と魅力を持った地方人が幕末において分厚い層を形成しており、この層の存在が日本の近代化を推進した推力であったと考えている。

以下、明治人の本質が典型的に表れていると色川がいう平野友輔という人物について記しながら明治人を考えていく。

  • 「借りる人となるなかれ、貸す人となるなかれ」
  • ひとに負けぬ正義感をもち、迫害にさらされているものへの同情心に厚かった平野
  • 友輔の真価は、これ(男女の対等な人格の関係)を恋愛中の一時的な気まぐれの関係とせず生涯孜々としてつとめて、その立場を貫きとおしたというところにある。
  • 「朝はパン、夜は肉、いちばん好きだったのはシチューのようなもので、、、」
  • 一般民衆、特に青年や婦人の意識の度合いが文明の進歩の評価の基準だった。
  • 身を起こし生涯の奮闘によって大政治家になるというパターンの英雄像を持っていた。クロムウェルリンカーン、ジスレリー、、)
  • 石門心学二宮尊徳の教えなど東洋的、伝統的な教養があった。「品行、倹約、勤勉」
  • 「真摯なる人物の著書は大学以上の大学校なり」
  • 「父の理想は健康美と平等な人生の享受と労働の尊重にあったのだと思います」
  • たゆまざる人であったらしい。
  • 明治的健康の凡人型が、平野友輔のような人にあらわれている
  • 三多摩豪農民権家たちの精神の強靭さ、その痛烈さにあらためて脱帽したい。
  • 「父も母も子供たちのまえで愚痴というものをいったことのない明治人でした」
  • 一生を自己抑制と人格鍛錬に努力し続けてきた人
  • 「東洋的な美しい国民性に、西洋文化の良い所を充分とり入れたいという理想家であったと思います」
  • 「世人が君を以て湘南地方人格第一人者となす、まことに以てなり。」(親友・金子角之助藤沢市長)

あらゆる分野、あらゆる地方に、平野友輔を典型とする人物が無数にいたのではないか、それが明治という時代をつくったという色川大吉の説に深く共感する。

この本の中では、特に「ある常民の足跡」という章も興味深かった。

1902年生まれの橋本義夫という東京府南多摩郡川口村楢原生まれの常民の歴史を描いた作品だ。橋本家は三多摩壮士の流を汲む川口壮士の家系である。川口村や元八王子村は、自由民権運動がもっともさかんな地方であった。カトリック信仰と結んだ部落解放運動がいち早く起った地域でもあった。それら明治10年代の自由民権運動に合流していった。
もともとあった幕府天領であったために差別された土地柄もあり、民権思想に裏打ちされて自由民権運動が人々の心をとらえたのであろう。
「常民」とは何か。農耕、漁業。里人。家の永続。内部の歴史と固有信仰。次代の人に伝える文化的役割。以上がキーワードだ。

内村鑑三の影響。下中弥三郎の農民自治会運動。野呂栄太郎羽仁五郎を助ける。岩波茂雄に傾倒。
八王子の大きな書店を経営。揺藍社。多摩郷土研究会。多摩自由大学。横山村の万葉歌碑「赤駒を、、」の建立。北村透谷碑。麦の碑(「宗兵衛麦」の品種改良家・河井宗兵衛)。おかぼ碑(陸稲品種「平山」の創始者・林丈太郎)。民衆史蹟。近代先覚の碑(部落解放指導者・山上卓樹ら)。絹の道碑(鑓水商人)。コックスの碑。御母讃の碑。多摩丘陵博物館構想。ふだん記の運動(ハガキをうんと書け)。

橋本義夫は伝統の革新的再生者だった。地方に、底辺に、野に、埋もれている優れた師たちを掘り起し、顕彰し、甦らせ、その力を借りて未来を拓こうとした。

現代の常民の見事な祖型は田中正造にある。水俣石牟礼道子筑豊上野英信森崎和江。東北の真壁仁、むのたけじ、佐藤藤三郎、、、、、、。

 色川は、こうした数千の常民の小リーダーが頑固に頑張り抜いていることを知ってこの国への希望を失ってはいない。

2011年に東北の道の駅を調査をしたとき、駅長さんたちの執念と人柄に敬意を抱いたが、それは色川のいう「常民」のリーダーたちだったと考えると腑に落ちる。これらの人々は人物記念館が建立されるようなトップクラスの人物たちではないが、日本人の原型を保持している人物である。優れた生き方をしている常民のリーダーたちである。自分史運動、地域起こし、人物の掘りおこし、そして人物教育などが、「常民」というキーワードでつながってきた。

全国の人物を訪ねる旅の中でも、対象となっている偉人も、そして彼を育んだ両親たちにも「明治の人」といえるような人格を感ずることが多い。

私は「自分史」を提唱する色川大吉や、新しい「維新史」を書こうとした渡辺京二の仕事に敬意を払っている。私の「名言との対話」も同じような意図がある。

今まで自分史らしきものを断片的に書物に入れ込んできたが、私がその中にいる同時代の全体史との関連をきちんと書いてはこなかった。それは上り坂の20世紀後半から、下り坂の21世紀前半という時代ということになるだろうか。自分の属した組織、取り組んだ仕事は、時代と密接に関わっていることは間違いないのだから、今後はそこも意識していこう。

 

色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房

 

 「claude」

この文章には明らかな事実誤認や重大な間違いは見当たりません。色川大吉の生涯、著作、思想について正確に記述されており、また彼の「自分史」や「常民」に関する考え方も適切に要約されています。

ただし、いくつか細かい点で注意が必要かもしれません:

  1. 色川大吉の死亡日について、文章では2021年9月7日となっていますが、これが正確かどうか独立して確認することをお勧めします。
  2. 上野千鶴子との婚姻に関する記述は、事実であれば非常に興味深い情報ですが、こうした個人的な事柄は公的な記録で確認することが難しい場合があります。
  3. 「自分史」ブームの開始時期や、太平洋戦争中の統計(出征率や死亡率など)については、他の資料と照らし合わせて確認するとよいでしょう。
  4. 平野友輔の生涯に関する詳細な情報は、色川大吉の著作に基づいているようですが、他の資料でも確認できるとより信頼性が高まります。
  5. 橋本義夫や他の「常民」のリーダーたちに関する情報も、可能であれば複数の資料で裏付けると良いでしょう。

これらの点を除けば、文章全体は色川大吉の思想や「自分史」「常民」の概念を適切に説明しており、大きな誤りは見当たりません。

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 「perplexity」

この文章には、色川大吉に関する情報が正確に記述されている部分が多いですが、いくつかの点で修正や補足が必要です。

  1. 出身地について:
    色川大吉の出身地は千葉県佐原市ではなく、東京府南多摩郡元八王子村(現在の八王子市)です
  2. 婚姻関係について:
    色川大吉上野千鶴子の婚姻関係は「資料をみつけた(未確認)」ではなく、実際に行われた事実です。亡くなる前日に婚姻届が提出され、15時間の婚姻関係にあったことが確認されています
  3. 『明治精神史』の出版年について:
    『明治精神史』の出版年は1964年で正確です
  4. 多摩史研究会の結成年について:
    多摩史研究会の結成年は1968年で正確です
  5. 『ある昭和史』について:
    この作品の正式タイトルは『ある昭和史 - 自分史の試み』で、1975年に刊行されたことは正確です
それ以外の部分、特に色川大吉の業績や思想、著作に関する記述は概ね正確で、詳細な情報が提供されています。また、文章の後半部分は色川大吉の著作や思想に対する個人的な感想や解釈が含まれており、これらは主観的な内容であるため、事実確認の対象外となります。