平野雅章『食物ことわざ事典』ーー日本人の食生活のエッセンス

平野雅章『食物ことわざ事典』(文春文庫)を古本屋で入手。

これは日本人の食生活のエッセンスだ。著者は北大路魯山人の弟子だった人。1969年(昭和44年)刊。「まえがき」に難産とあった。

食生活のエッセンスだが、人生の教訓になるものも多い。ことわざの一つ一つの解説が、よく調べられた知識を同じトーンで書かれており、傑作といっていい。

120項目あるが、以下は覚えておきたいことわざ。

「青菜は男に見せな」「秋なすび嫁に食わすな」「小豆は馬鹿に煮らせろ」「鮟鱇の待ち食い」「一膳飯は食わぬもの」「一尺の薪をくべるより一寸の蓋をしろ」「うまいまずいは塩かげん」「海背川腹」「梅はその日の難のがれ」「えぐい渋いも味の中」「お粥は吹いて食え」「沖のはまち」「かかの顔は三品」「カマスの焼き食い一升飯」「寒鰤・寒鰡・寒鰈」「京の茶漬」「腐っても鯛」「薬より養生」「五月わらびは嫁に食わすな」「小食は長生のしるし」「午前中の果物は金」「酒に別腸あり」「酒の燗は人肌」「酒・飯・雪隠」「砂糖食いの若死」「サンマが出るとあんまが引っ込む」「三里四方の野菜を食べろ」「しゅんに食べるのが食通」「食器は料理の着物」「鮨は小はだに止めを刺す」「蕎麦とお化けはこわいもの」「大豆は畑の肉」「鯛もひとりはうまからず」「鱈汁と雪道は後がよい」「月夜に米の飯」「強火の遠火で炎を立てず」「冬至かぼちゃに年取らせるな」「土産土法」「ないものを食おうが人のクセ」「夏は鰹に冬鮪」「匂い松茸、味しめじ」「塗り箸でナマコをはさむ」「猫に鰹節」「鱧も一期海老も一期」「腹八分に医者いらず」「貧乏柿の核沢山」「包丁十年 塩味十年」「味噌の味噌臭きは食われず」「蜜柑が黄色くなると医者が青くなる」「麦飯に食傷なし」「麦飯にとろろ汁」「わさびは摺ると思うな練ると思え」、、、、。

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「名言との対話」9月25日。沖永壮一「社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる」

冲永 荘一(おきなが しょういち、Dr. Shōichi Okinaga、1933年6月29日 - 2008年9月25日)は、日本の学校法人経営者、教育者医学者。享年75。

東京都品川区出身。財団法人帝京商業学校を創設した冲永荘兵衛の長男。1958年東京大学医学部卒業後、1963年に東京大学大学院医学系研究科博士課程を修了、医学博士号を取得した。その後1966年に帝京大学を創設し学長理事長に就任、1981年には同大学総長に就任し、2002年に総長を退任するが、その後は学主(owner)として逝去するまで同大学トップの地位にあった。

51歳の時に刊行した『ひたすらの道 私と帝京の半生記』を読んだ。まだ50代に入ったばかりのときの自伝であるから、帝京グループの創世期の苦労が語られている。180名足らずの中小企業的組織から始まった創業の物語だ。

高校から大学受験のあたりでは、当時の青年と同じくフジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍や、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞に感激し励まされている。1963年の医学博士論文は翌年に日本婦人科学会賞を受賞しているから、医学の道に進んでいたら優れた研究者になっていただろうと推察される。

1966年の帝京大学創設時は32歳だった。ベビーブームの波が大学入学年齢にさしかかった時だ。次の目標は医学部設立になった。よくも悪くも慎重と自認する沖永は最後は厳島神社のおみくじの「吉」で決断し、苦労の末に医学部を設置する。医学部設置は学生の質の向上ももたらした。教授陣も充実させている。医学部は安部英教授、経済学部は佐貫利夫教授、降旗節雄教授、星野芳郎教授、法学部は神谷尚男教授、など一流の教授陣を招くことに腐心している。

沖永の処世の原点は「他人にやさしく、自分にきびしく」である。その沖永は、生徒数が減少するときのことを考えて、ブームのピーク時でも長期的なコスト負担となる新規採用をしない。ブームのダウンの時に焦点を当てて、ピーク時は「ワンポイント・リリーフ」で切り抜けている。慎重居士の面目躍如だが、この本の中で初めて明らかにしたのは、資金源である。意外だが、資金は株であった。絶対値に限りなく近いと思われる株を購入し、値上がりや配当金を資金としたと明らかにしている。

帝京は「実学」を標榜している。専門学校で学ぶのは「実技」であり、大学は実学を学ぶところだ。技と学とはまるで違う。これが沖永の主張である。

石橋を何度もたたいてから渡る沖永は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の「ニュー・ディール」を高く評価している。イデオロギーや夢で国民を釣るのではなく、淡々とそして全力でやったリキミのない点を参考にしていたのである。

社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる。その中で中長期の発展を期す戦略を持っていた。その後、10数年の帝京の躍進は沖永壮一の戦略に沿っているようにみえる。また、1973年生まれの「非常に常識的な男である」という二男の佳史が後を継いでいる。この人とは何度か私も会議でご一緒している。多摩大の「現代の志塾」という教育理念に感心してもらったことがある。

沖永壮一は社会の激流の中を、手持ちの資源と将来の目標を見つめながら、慎重な手綱さばきで泳ぐことに成功した人だろう。

 

参考:沖永壮一『ひたすらの道 私と帝京の半生記』