ブログ「今日も生涯の一日なり」は、20年毎日書き続けてきたことに気がついた。

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ブログ「今日も生涯の一日なり」は、2024年9月で丸20年休みなく毎日書き続けてきたことに気がついた。

このブログはこの20年間の私のか活動記録だが、ある意味データベースになっている。読んだ本についてピックアップすると、「読書日記」になる。正確には数えてはいないが、2000冊くらいになるだろうか。2016年から始めた「名言との対話」は本日で3220本になる。3000人以上の近代以降の代表的日本人に向きあったことになる。組織、旅、人物との交際など、テーマしだいで、いくつもの「〇〇日記」が誕生する可能性がある。

最近は、4時45分に目覚ましをセットしている。そして5時から机に向かうことにしている。ドイツの哲学者・カントの真似をしている。カントは召使いに4時45分に必ず起こすように指示をしていた。そしてどんなに嫌がっても起こせと厳命をしていた。私には召使いはいないので、目覚まし時計を召使いの代わりにしているというわけだ。まず、パソコンに向かいブログを書く。私のブログは2つのパートに分かれている。1つは毎日の日記である。毎日何かひとつ、トピックスを書くことにしている。もう一つは、2016年から続けている「名言との対話」だ。

宮本武蔵の『五輪書』には 「千日の稽古をもって鍛とし、 万日の稽古をもって錬とす」とある。日本刀造りでは鉄を叩き硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって硬さに加えて柔軟性を身につけた強い名刀になる。鍛錬とは千日、万日の稽古を積み上げることなのだ。3年で鍛、30年で錬、という計算になる。

武蔵を尊敬していた空手の大山倍達は、これをもじって「武の道においては千日を初心とし 万日の稽古をもって極となす」としている。このブログ修行の場合、万日の「極」に達するのは2033年である。淡々と続けていきたい。

以下、この1-2年の間に、著名人の「日記」について書いたものだ。これを材料にすると、「日記論」が書けるかもしれない。次の「幸福塾」の「新・代表的日本人」でトライしてみようか。

  • 佐々木喜善は1904年から1933年まで書き続けた日記。佐々木は死の前日まで書いている。息子の佐佐木広吉が原稿用紙に移し替えたところ、2762枚あった。
  • 安田善次郎は、33歳から82歳の死の直前までの49年間、毎日日記を書き続けた。
  • 文章を書くことが苦にならなくなる。書くことへの壁が低くなる。それでたくさんの文章をつづることになる。これはデッサンであるととらえよう。その日々の訓練が代表作、大作までたどり着く道だろう。
  • 日記と日誌は違う。日々の作業、面談、仕事などの事実を記す日誌、それに感想などを加えることで、日記が誕生する。まずは日誌をメモすることであり、そのためには手帳が一番いい。
  • はてなブックマーク - 知研セミナー「人生100年時代のファイナンシャル・プラニング」。阿久悠の「日記力」を読むと、時代、変化、アンテナ、数字、観察、名前、メモ、短歌などを一日一ページの日記を毎日書き続けて、時代を俯瞰しながら優れた詩を書きつづけました。
  • 町田小野路の幕末の当主・小島為政。この家の当主は代々日記を書き残す風があり、86年間の日記が残っている。この日記を解読した書物も読んでみたが、幕末の様子がよく理解できる内容だった。
  • 木戸孝允日記」は記事が詳密で感情の起伏が表明されているが、「大久保利通日記」は事務的かつ淡々とした記述であり、対照的だ。
  • 本居宣長に学ぼう:本居宣長記念館。3刀流(昼・夜・深夜)。『古事記伝』44巻は34年。生まれた日から死ぬ直前までの日記。才能・晩学・暇。記録と継続の人。整理の達人。「ういのやまぶみ」。
  • 内村鑑三「私には昔から日記をつける習慣がありました。その日記に、私は、自分に臨んだ考えや出来事を、なんでも書きつけてきました。私は、自分自身を注意深い観察の材料にしました。、、そのことは、どんな勉強にもまして、とても興味深いものであることが、わかったのです。」
  • 吉野作造は30歳過ぎから亡くなるまで日記を書き続けていた。
  • ノンフィクション作家・柳田邦男「いざ100歳までの日記」の新連載が始まった。柳田は現在87歳。百歳を目指して一日一日をしっかりと生き、その証として2023年の誕生日の6月9日から日記を書き始めた。それを公開するのだ。柳田が100歳になるのは12年半後だが、2022年に9万人を超えている100歳人口ををみると、「百歳という年齢が、自分にもあっけらかんとやってくるような気がする」と書いている。
  • 外山滋比古は20代からものを書き始めて、90代まで日記は一日も休んでいないそうだ。「黙々と走るマラソン」。「並べると後光がさすようで壮観」。「わが人生全集、こにあり」。「一日の決算」。「日記をつけ終わったとき、一種の快感を覚えるのは、忘却、ゴミ出しがすんで、気分が爽快になる、、」。「はつらつたる明日をむかえることができる」。「休んではいけない」。、、、、
  • 岡井隆過去を書く伝記が嫌いな岡井は、現在を書く日記に愛着がある。日記は「強い。勁い。つよい」と繰り返している。
  • 田健次郎は1906年から死去の寸前まで24年間にわたって詳細な日記を書いている。それは『田健治郎日記』として刊行されており、近代政治史上の重要な資料となっている。
  • シュリーマンは12歳から68歳で没するまで、50年以上に亘って日記をつけ、ノートを残している。「私はつねに5時に起床し、5時半に朝食、6時に仕事をはじめて、10時まで休まず」「私の習慣としてつねに早朝3時45分に起床し、、、次に水浴した」「床に入る前に日記をつける」
  • 滝沢馬琴は几帳面で規則正しい日課であった。体操を終え朝食。書斎で前日の日記を書く。その後は前日の原稿のチェック、校正を行う、そしてその日の著述にかかる。
  • 柳田邦男(88歳)『いざ100歳日記』。90歳が2年半後に迫っているけれど、そんな目先のことでは視野が狭くなるから、大胆に100歳を目指して一日一日をしっかりと生き、その証(あかし)として、今年(2023年)の誕生日から日記を書き始めているんですーー2023年6月9日)
  • トルストイ「日記とは自己との対話である」

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『革命』用の文章を書く。「和服」「和菓子」「和洋折衷」が完成。

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「名言との対話」10月24日。北杜夫「わかりきったようなことに直深い謎を見い出せるのは選ばれた人たちだ」

北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉(さいとう そうきち)、1927年5月1日 - 2011年10月24日)は、日本小説家エッセイスト精神科医医学博士。享年84。

祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイスト精神科医斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香

27歳で『幽霊』を自費出版。33歳、『どくとるマンボウ航海記』(中央公論社宮脇俊三が編集者)がベストセラーになった。『夜と霧の隅で』で芥川賞。34歳から『楡家の人びと』の執筆を開始し、3年後の37歳で刊行した。。

学生時代に読んだ記憶のある「楡家の人びと」は、1964年に出版された。一族3代の繫栄と衰退の大きな物語を軸に近代日本の時代と運命を描いた2000枚近い傑作である。 三島由紀夫は、「これほど巨大で、しかも不健全な観念性をみごとに脱却した小説」「これこそ小説なのだ!」と最大級の賛辞を送っている。また、初代院長基一郎は、何といふ魅力のある俗物であろう」とも語っている。

北杜夫が松本高校時代に答案に書いた歌が残っている。後のユーモア満載のベストセラーを予感させる。
 問題を見つめてあれどむなしむなし冬日のなかに刻(とき)移りつつ
 怠けつつありと思ふな小夜ふけて哲学原論をひた読むわれを
 時によりできぬは人の習ひなり坂井教授よ点くれたまへ

北杜夫が2000年の夏に書いた遺書がある。北の人生観が透けて見えるようだ。

「死亡して半月ほど発表せず、二階の書棚の石棚にある茂吉の骨とまぜ青山もちの斉藤家の墓におさめるべし。なるたけ母輝子の骨のそばやよし。通夜、葬式、しのぶ会は一切なし。死亡発表後、香典は受け取る。香典返しなし。小さな記念館だけでもつくることを許さず。」

 2005年に松本清張記念館を訪問した。毎日新聞の2004年10月26日の記事に第58回読書世論調査の「好きな作家」(一人で5人挙げる)という結果が出ていた。芥川賞では、1位松本清張(22%)、2位遠藤周作(17%)、3位井上靖(13%)、4位石原慎太郎、5位田辺聖子、6位北杜夫、7位大江健三郎、8位村上龍、9位石川達三、10位柳美里北杜夫は堂々の5位だった。

 

 熱烈なマンボウファンであった時代に、航海記、昆虫記なども読んでいる。 この青春記は、北杜夫が40歳にならんとする時期の作品。 旧制松本高校から東北帝大医学部の間の時期の、ユーモアあふれる青春模様を愉しんだ。

久恒啓一団塊坊ちゃん青春記』(多摩大出版会発行。メタ・ブレーン発売)。探検部中心の大学時代。羽田、札幌、ロンドン、成田に勤務し、結婚するまでの社会人時代。抱腹絶倒、波瀾万丈の笑いと涙の20代の青春を活写。登場人物は実名を採用。漱石の『坊ちゃん』と北杜夫『どくとるマンボウ青春記』を意識している。

辻邦夫と北杜夫の2人の共通項はトーマス・マンである。マンの師匠はゲーテだということだ。北杜夫は敬愛するトーマス・マンについて「マンは一語一語言葉を厳密に選びだす作業を午前中だけつづけ、いかに感興がのろうと、午後になればこれを打ち切ってしまう。」「神聖な午前」と言っている。日記を読んでいると、それがよくわかる。 

阿川弘之「南蛮阿房列車」を読了。阿房列車は、内田百けんの名作シリーズで、その衣鉢を継ごうという人が誰も現れないので、試みに自分が書いてみるということで、汽車に乗る旅を好む阿川弘之が書いた本だ。列車の旅は道中をともにする相棒が必要だ。相棒は同年代の孤狸庵・遠藤周作とまんぼう・北杜夫。乗物狂でせっかちな阿川と躁病・遠藤と鬱病・北の三人を中心とする弥次喜多道中は愉快だ。

父の茂吉から可愛がられた北杜夫は、「茂吉は一生懸命生きた男だった。解剖したときには体はボロボロだった」と医者の目で見つめていた。

学生時代、北杜夫の「どくとるマンボウシリーズ」を熱心に読んだ記憶がある。一方で『楡家の人々』という大作にも触れた。躁鬱病と自らを診断したこの医者兼作家は、「わかりきったようなことになお深い謎」を見いだすことが、創造の鍵だと知っていた。確かに、常識を疑うことが契機になる。我疑う、ゆえに我あり、だ。