「図解塾」のテーマは「畳」と「蕎麦」ーー「タテ・ヨコ・イマ・ワ」という方法。

図解塾ー本日のテーマは「畳」と「蕎麦」。

識者の書いた内容を図解するやり方が普通であるが、都築さんのいうように、テーマに関する歴史を軸に、近隣分野や国際比較、現在の状況、そして知りたい情報を加えていくやり方も有力であることがわかってきた。歴史と、地理と、現在、そしてトピックスやエピソードを付加するという方法だ。「タテ、ヨコ、イマ、ワ」か。

以下、塾生の学び。  

  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日は『日本を知る105章』の続きで、「畳」と「蕎麦」を文章と図解で読み解きました。「畳」では、はじめに、縄文・弥生時代から、高度経済成長期までの畳の歴史を俯瞰しましたが、今のように、畳が普及したのは、なんと江戸時代中期以降。意外に新しいということがわかり驚きました。また、座り方の歴史もそれに沿うような形で変化してきており、「正座」は元禄・享保時代からとのこと。戦国時代はすぐに立って動ける座り方(あぐらなど)が主流だったという話もあり、正座も意外と新しいことに驚きました。「蕎麦」は私の担当で、江戸前蕎麦の御三家といわれる「薮」「砂場」「更科」の歴史や、それぞれの蕎麦の特色、そばつゆの辛い・濃いなどを調べてみました。これまでなんとなく食べていた蕎麦ですが、比較してみると面白く、また薮そばにも御三家があるなど、老舗の系譜などにも興味が湧いてきました。「そば通なる者」が死ぬときに「つゆをたっぷりと漬けて食べたかった」と言ったという話から、知識で食べてはいけない、食通ぶってはいけない、自分の味覚で食べること、との教訓もあり、蕎麦にまつわる話として面白いと思いました。今回も楽しい内容でした。ありがとうございました。
  • 本日もありがとうございました。今日の「日本を知る105章」の図解は、37「畳」(秦恒平)と38「蕎麦」(近藤啓太郎)でした。「105章」の図解のやり方がだんだん分かってきました。作家や詩人に顕著ですが、そのテーマについて紹介するというよりも、そのテーマをネタに自分の好きなことを書く、エッセイのような書き方ですので、話題があちこちに飛んだり、きわめて個人的な思いだったりします。ですから、まずは「自分が知りたいことは何か」を考え、他の資料をあたって図解の骨格をつくり、それに筆者の言葉を付けていきます。自分が担当した「畳」についても、畳の語源とか、いつ頃から使われどのように発達してきたかなどの自分なりの疑問をもち、畳屋さんのHPなどを参考に畳の歴史をまとめてみました。自分なりにかなり勉強になりました。畳を敷きつめるというのは鎌倉時代の書院造りからとか、一般に広がったのは江戸中期ですわり方もそれ以前は正座がほとんどなかったのがこの時代以降に一般的になったことと深い関係があることなど。「蕎麦」についても非常に分かりやすく三大蕎麦の比較や歴史などをまとめてくださってよかったと思います。街で蕎麦屋に入るとき、この図解を思い出すことで何十倍も食の楽しみが増えると思いました。次回以降も楽しみにしています。
  • 本日もありがとうございました。「畳」と「蕎麦」でした。畳は昔からあるものとばかり思っていましたが、地位の高い人が板の間で台のように座るためのものだったこと、普及したのは江戸中期。高度経済成長期には、洋風の建物に畳のお部屋がセットになった流れが、畳の歴史の図解でわかりやすかったです。畳こその座り方。あぐら、たてひざ、せいざなど、座り方と戦との関係、大河ドラマではどう座っているかなどみなさんとの会話も楽しめました。「蕎麦」はとても分かりやすい図解で、江戸前蕎麦御三家の、更科、砂場、藪について説明していただきました。違いが明確にわかり良かったです。出かけたときによくお蕎麦屋さんに入りますが、御三家よく知りもせずに、東京なのにいろいろなお蕎麦があるなぁと漠然と思っていたので、次回からはどのお蕎麦か気にしながら食べてみたいと思いました。食通ぶるのではなく、自分の味覚で食べるのがよいというまとめは、納得です。自分がおいしくいただくのが一番ですね。次回は、団体旅行、月、鶴、、、、どんな内容でどんな図解が出てくるのか楽しみです。
  • 11月の図解塾に参加しました。久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。今回も「日本を知る105章」から37「畳」(秦恒平氏)と38「蕎麦」(近藤啓太郎氏)のテーマについて、受講生の方々が作成した図解の説明を通じて、日本の伝統文化の成り立ちや発展を学び、とても参考になりました。普段意識しない「畳」や「蕎麦」も、図解を通して日本人の生活や価値観に深く根ざしていることがよく理解できました。 「畳」については、語源が「畳む」に由来し、縄文時代からわらの敷物が使われていたこと、鎌倉時代以降の書院造りの普及により部屋全体に畳が敷かれるようになったことがとても興味深かったです。また、畳が普及することで作法や座り方があぐらや正座へと変化し、特に江戸時代中期からは正座が定着していたことに驚かされました。畳は単なる床材ではなく、生活様式や礼儀作法にも影響を与えていたとはとても驚きました。図解のおかげで、畳文化の変遷が年代ごとに整理され、理解しやすかったです。  「蕎麦」については、江戸前の三大蕎麦「更科」「砂場」「藪蕎麦」の異なる歴史や特徴を知ることができました。更科蕎麦は白く、砂場は茶色、藪蕎麦は緑色で、それぞれそば粉の製法や使用する部分によって色が異なることがわかり、今まで知らなかった意味があると知りました。江戸前蕎麦は濃い味のお汁に少しだけつけて食べる独特のスタイルが特徴で、ただ食べるだけでなく、味わうことを重視していたのも興味深かったです。 また、「自分の味覚で確かめることが大事」という言葉が印象に残りました。実際に蕎麦を食べないで食通ぶるのではなく、自ら蕎麦を食べて、味を確かめることが大事ということがわかりました。 今回の図解を通じて「畳」と「蕎麦」が日本人の生活にどれほど密接に結びつき、時代や価値観の変化とともに形を変えてきたかがよくわかりました。
    今後も実際に「畳」や「蕎麦」に触れ、体験を通して理解を深めていきたいと思います。皆さんとの意見や感想の共有もとても有意義で楽しい時間でした。次回も楽しみにしています。ありがとうございました。
     
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「川柳まつど」469号(10月27日)。入選作

予備費って つまるところは 裏金か」(宿題「会心」)

会心の 笑み何回か あればいい」(宿題「会心」)

「かちかちと 余生の針が すすむゆく」(宿題「かちかち」)

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種村直樹公式ホームページ

「名言との対話」11月6日。種村直樹「日本列島気まぐれ列車」

種村 直樹(たねむら なおき、1936年3月7日 - 2014年11月6日)は、日本作家随筆家評論家。享年78。

1973年4月 毎日新聞社を退社。鉄道に乗り、気が向いた駅で降り、降りた駅の周辺を歩き、温泉や無名な旧跡を回り、再び鉄道へ乗るという「気まぐれ列車」の旅を実行した人である。

「汽車旅ゲーム」と種村が呼んでいる旅のスタイルがある。例えば、テーマを決めて何日間も車中泊で列車を乗り継ぎ日本を縦断する「乗り継ぎ旅」、ルールを決めて駅や郵便局、温泉などを巡る「ラリー旅」、鉄道線・連絡船バス線を組み合わせた「最長片道切符の旅」などがある。

日本で唯一のレイルウェイライターを自称していた。30年以上続けてきた「鉄道ジャーナル」誌の「レイルウェイレビュー」は、鉄道ファンに人気があり、1974年にはファンを中心にした「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会(通称TTTT)」が結成された。フリーになってから15年余で1,000人以上の会員を獲得している。

ライフワークとしては「日本列島外周気まぐれ列車」がある。日本列島の海岸線にそって、なるべく陸路の公共交通機関を使用しながら反時計回りに一周するという企画で、1980年6月に東京都中央区日本橋を出発。2009年6月6日に出発地の日本橋に戻り、30年で完結した。約100回延べ500日にわたって一緒に旅した100人ものファンに感謝している。種村の鉄道の旅は集団の旅だった。

 鉄道趣味の人は人数も多く、奥が深い。以下、呼び名だけでも相当ある。鉄道ファン、鉄っちゃん、「鉄道趣味者」「鉄道趣味人」「鉄道愛好者」「鉄道愛好家」、「鉄キチ」、「鉄道マニア」、「鉄道オタク」「鉄道ヲタク」、「鉄オタ」「鉄ヲタ」「オタ・テツ」、、、。尊称、蔑称入り乱れている。

以下、彼らが興味を持つ分野も広い。乗り鉄撮り鉄。編成鉄。集鉄。駅鉄。車両鉄。レール鉄。模型鉄。音鉄時刻表鉄。

阿房列車』の内田百閒、『南蛮阿房第2列車』の阿川弘之、そして『時刻表2万キロ』の宮脇俊三の活躍で、鉄道紀行文学紀行というジャンルが確立し菊池寛賞を受賞している。道中を楽しみ、時刻表極道の珍獣と自らを呼んだ宮脇は、新ジャンルの開拓者とし文学賞を受賞している。戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」。

宮脇俊三と並び称される存在で親交があった。作家兼編集者の宮脇は一人旅、新聞記者出身のジャーナリスト種村はグループ旅行であった。

宮脇より10歳ほど年下の種村は守備範囲は鉄道に関する広い分野に及び、東北新幹線開業などのルポ、国鉄の終焉などをテーマとする時事評論紀行文推理小説などを数多く発表したが、交通文化賞を受賞したのみで、鉄道紀行文学というジャンルの衣鉢を継ぐことはできなかったのではないか。独特の文体もあり賛否両論があり、またラジオのディスクジョッキー、レコードの監修、推理小説執筆などに加え、国の審議会や自治体の委員、財団の評議員にも就任するなど、興味と関心が広く、面白いことが好きで、「気まぐれ」であったためかもしれない。

使命感などと気張らずに、心の赴くまま、仲間との愉快な時間を過ごす。それはそれで、素晴らしい。種村の戒名は「宏鐵院旅遠直鑑居士」。