本日の動きを遡って記す。1万5千歩。
21時:西麻生の「島地バー」。集英社の伝説の名編集者・島地勝彦(83歳)さんの経営する会員制バーで30分。『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ日本版』などの編集長。小学館オーナーの相賀さんとカメラマンの真下さん。
島地さんからは、近著『人生を冥途までの暇つぶし』(発行:日刊ゲンダイ。発売:講談社)をサイン入りでいただく。サインは座右の銘「人生道を極めるのはロマンティックな愚か者たれ」をいただく。島地さんのエッセイは愛読する「日刊ゲンダイ」でよく読んでいる。それをまとめた本。「仰ぎ見る師匠」(スーパーメンター)は、父と慕った柴田錬三郎、祖父としていた今東光、兄と考えていた開高健の3人。JAL広報部出身だと挨拶すると、上司であった「加藤さん」という名前を出してくれた。
18時:神楽坂で「元祖 THe倶楽部」の会合。私のJAL広報部時代に付き合っていた大手企業の広報・宣伝分野で活躍していた同世代の友人たちが穂禮上海 (ほれいしゃんはい)に集合。もう30年以上の歴史がある。みな、元気だった。
16時半:有楽町の「アーチザン美術館」で開催中の「人を描く」展。古代ギリシャから現代までの人物画展。画家の自画像に興味を持ってみてきた。マチスのミニ展のこの企画展の中でやっていた。この美術館は、ブリジストン美術館を建てかえたもの。創業者の石橋正二郎の銅像。
14時半:駒場東大前の「日本近代文学館」の「編集者 かく戦えへり」展。滝田樗陰、菊池寛、坂本一亀(坂本龍一の父)、斎藤十一、橋中雄二ら伝説の名編集者と文豪たちとの手紙、ハガキのやりとりに興味津々。原稿量の前借の依頼なども多い。漱石直筆のレプリカ「則天去私」も。
「川端康成記念室」ものぞく。
午前:雑用を片づける。『図解の技術 大全』の編集者ともやりとり、
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「名言との対話」11月19日。甘糟章「読者の心の奥底の飢えとか、ニーズを見つけ、そこに穴を開けるのが編集者の仕事です」
甘糟 章(あまかす あきら、1929年5月30日 - 2013年11月19日)は、日本の雑誌編集者。マガジンハウス副社長。享年84。
神奈川県横浜市出身。東大の仏文を出て、 1959年に平凡出版に入社。「平凡パンチ」、「週刊平凡」、「an・an」の編集長として、1960年代から70年代の流行の先駆者として活躍した。その後、「クロワッサン」、「ダカーポ」などを創刊し、大人になった「an・an」世代へのライフスタイルの提言を行う。1980年代に至るまで、出版文化の中での影響力は大きなものがあった。「ハマトラ」(横浜・元町生まれのファッションスタイル)や「リセルック]の名付け親とも伝えられる。
平凡パンチ:1964年4月創刊。男性向け総合情報誌。ファッション、風俗、グラビアなどを扱い、ラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」をスポンサードするなど、他メディアへの展開も行なった。
an・an:始まりは、『平凡パンチ』女性版。若年層をメインに購読されたいわゆるファッション雑誌。話題提供の発信源として認知された。
クロワッサン:創刊号のキャッチフレーズは「ふたりで読む ニュー・ファミリーの生活誌」。40歳前後の主婦がターゲット。生活だけでなくファッション・文化などもテーマとした。
ダカーポ:創刊時のキャッチコピーは、「現代そのものが圧縮されているリトルマガジン」。誌面で取り上げるジャンルは、政治・経済・宗教・文学・サブカルチャーなどと幅広い。
青春時代には「平凡パンチ」は「週刊プレイボーイ」と並んで影響を受けた雑誌だ。ビジネスマン時代は、料理された情報が満載の小型版型の「ダカーポ」も好きな雑誌だった。JAL広報時代にはマガジンハウスの編集者とはよく付き合った。彼らはみなセンスがよく、時代の最先端を突っ走っている人たちだった。男性誌担当だった私が付き合っていたのは、石川次郎さんが創刊した「ターザン」や「BURUTAS」の編集者で、彼らは甘糟章に鍛えれた人たちだった。
読者のニーズとは聞こえがいいが、それは「飢え」であると企画の名人・甘糟章は断言している。若い男性の飢え、若い女性の飢え、主婦の飢え、現代人の飢え、それぞれの「飢え」を満たすべく、強力なドリルで時代に穴を開けていこうとしたのが甘糟章の雑誌作りであった。メディアの形は変わっても、核心である「飢え」に焦点をあてるメディアは、人々の精神と肉体を撃つ。それは時代のテーマそのものだからだ。出版界、雑誌界の影響力の凋落中の2024年、現代の「飢え」は何だろうか。