アクティブ・シニア倶楽部セミナー「『アクティブ・シニア革命』執筆者は語る」

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以下Zoomの自動要約。

要点
この会議では、「アクティブシニア革命」の執筆や編集に関する進捗状況が報告され、参加者たちが自身の経験や専門知識を共有しました。日本文化や高齢者の役割に関する様々なプロジェクトや研究が紹介され、それらを通じて社会に貢献する方法が議論されました。また、雑誌「イコール」プロジェクトやレイアウトデザインの進捗状況、今後の作業計画についても話し合われました。
座談会の経験と可能性:

深谷康雄が座談会の編集について説明し、坪内俊之が定年退職後の海外旅行経験を共有する。ももかよは27年勤めた企業を退職し大学院生になった経験を語り、可能性を追求することの重要性を強調する。会議では、アクティブシニアの生活や新しい挑戦について様々な視点が提示され、参加者たちの経験が共有される。
日本文化の世界的発信:

Isaoは高齢者の役割や日本文化に関する書籍、セミナー、プロジェクトについて紹介し、久恒は日本人物記念館の旅や日本文化図鑑、人生百年時代に関する研究と著作について説明する。久恒は特に、日本の偉人の共通点や日本文化の要素を図解で世界に発信する計画、そして百歳以上生きた人々の人生を紹介するプロジェクトについて詳しく述べる。会議では、これらの取り組みを通じて日本文化や日本人の考え方を世界に伝える重要性が強調される。
社会貢献のための個別の経験:

複数の参加者が自己紹介と近況報告を行っています。Mamadaさんはカンボジアでの新生活と将来の計画について語り、松本龍二さんは認知症患者のためのAI小説の効果を報告しています。鈴木章子は手話通訳の経験を通じて、長年続けてきたスキルが貢献につながる可能性について述べる。参加者たちは、それぞれの経験や専門知識を活かして社会に貢献する方法を模索している。
梅棹忠夫著作集の概要:

久恒氏が梅棹忠夫の著作集について解説し、その全体像を図解で説明する。近藤氏が8月に開催されたアクティブシニアクラブの未来フェスについて報告し、また東京都の美術館を巡るグルッドパスの体験をコラムにまとめたことを共有する。会議では、知的生産の技術や文明学、日本文化研究、そして博覧会の未来像についても議論される。
コミュニティ主体の雑誌プロジェクト:

コミュニティ主体の雑誌「イコール」プロジェクトについて説明している。この雑誌は、多様なコミュニティが参加し、クラウドファンディングで資金を調達し、低コストで制作される。アクティブシニア革命をテーマに、企業向けセミナーや講師派遣も計画されている。参加者に対して、プロジェクトへの協力と感想の共有が求められた。

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朝:近藤秘書と打合せ。

11時の立川でオステオパシー。その後に、妻と昭和記念公園を自転車を借りて散策。

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「名言との対話」11月25日。國弘正雄「とても橋にはなれなかったが、橋げたの一つぐらいにはなれたのではないかな」

國弘 正雄(くにひろ まさお、1930年8月18日 - 2014年11月25日)は、日本の同時通訳者翻訳家文化人類学者、政治家。享年84。

東京出身。神戸一中では小松左京高島忠夫と同級。新渡戸稲造の伝記を読んで感動し、猛烈に英語を学ぶ。ハワイ大学を卒業。アメリ国務省の仕事でワシントンに常駐し、日米の関係者と交流を持った。

1965年には村松増美、小松達也らと、日本初の会議通訳エージェントとして1965年に設立された、株式会社サイマル・インターナショナルの創設に参加している。

英語の同時通訳の草分け的な存在。1969年のアポロ11号の月面着陸を伝えるテレビ中継番組における同時通訳などで有名になった。1965年からNHK教育テレビで「英語会話中級」講師を務めたから、私もよく知っている。1971年からは同じくNHK教育で「トーク・ショー」の司会者として人気を集めた。しかし同時通訳は「口先労働者」ではないかと考えるようになる。三木武夫外相秘書官、文化放送にて「百万人の英語」講師を務め、1978年からは日本テレビの「NNNジャストニュース」のキャスターを、1983年からは「NNNきょうの出来事」のキャスターをそれぞれ務めた。

1989年、旧社会党から参議院議員選挙に出馬し当選、1期務めた。

「同時通訳の神様」「日本のライシャワー」「日本外交のキッシンジャー」「ミスター護憲」などさまざまの名前で呼ばれた。著書は100冊以上ある。エネルギーの塊だった。

自伝『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心己やまず』を読むと、同時通訳という職業を通じて得た人脈の豊富さに驚かされる。賀川豊彦。木川田一隆。キッシンジャー。トインビー。ラルフ・ネーダー。ファハド。サダトケネディ。フォード。マンスフィールドフルブライト。トフラー。オッペンハイマー。、、。圀弘は著書のファンのレターに、手書きで全員に返事を書くという気まじな性格でもあった。

父は77歳で他界するのだが、自伝『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心己やまず』は78歳で刊行している。父の年齢を超えて自伝を書くことにしたのであろう。

 字幕翻訳の戸田奈津子は映画の翻訳を通じて、映画監督やトム・クルーズなど著名な俳優たちとの交流を持っている。圀弘や戸田は英語を武器に、豊かな人脈を堪能したのだが、指圧を創始した浪越徳次郎も、密室で大物の政治家、俳優、女優、経営者などと二人きりになる機会を活用して膨大な人脈を形成し、それで指圧を法律の中に入れることに成功している。書籍や雑誌の編集者、人物の肖像写真をテーマとした写真家なども、豊富な人脈を得ている人が多い。仕事のレベルが高く、その過程で信頼を得る、そしてその縁を大事にする。そういう人が結果的に多くの人物を知ることになるのだろう。私は30歳あたりからサラリーマンの勉強会に入って、司会や講演内容のまとめをやってきた。その過程で、著名な人物たちに可愛がってもらった。それが多くの機会を与えてくれた。

さて、國弘正雄が尊敬した 新渡戸稲造は、札幌農学校の第2期生だった。クラーク学長は「青年よ、大志を抱け」という名言を残していた。新渡戸は東京帝大の面接試験で「太平洋を架ける橋になりたい。日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する仲立ちになりたい」と答えた。それはクラークへの応答歌であった。國弘は中学時代に、このエピソードを知りに感動し、国際人となることを決意する。そしてその志を英語という武器を携えて、新渡戸を師匠として生涯かけて追求した。クラーク、新渡戸、圀弘という「志」のバトンがあったのである。その国広の生涯の総括が「橋」ではなく「橋げたの一つ」という謙虚な言葉になった。この人の八面六臂の活躍を眺めると、若い時代に得た「志」に沿って一貫した人生を送ったのだとの感慨を覚える。 「持続する志」の人である。

 

烈士暮年に、壯心已まず―國弘正雄の軌跡

烈士暮年に、壯心已まず―國弘正雄の軌跡