「金子兜太展」(山梨県立文学館)ーー「定住漂泊」「存在者」「荒凡夫」「芭蕉に冷淡、蕪村は相手にせず、とことん一茶を追い続けた」「ライバル・飯田龍太との交流」

山梨県立文学館「金子兜太展」

戦後の占領軍の文化政策政策によって、短歌や俳句は存続に危機にあった。それを救う役割を演じたのは、韻律にこだわった短歌の岡井隆であり、俳句の革新に燃えた前衛の金子兜太であった。兜太は提携や季語からの自由、「平和の俳句」などへの踏み込みなど、無限の可能性を追求した。

小学6年生の作文「私の希望」。俳人でもあった父の後を継いで医者になり、医学博士となって大発見をする。帝国大学の医学部かどこかの学部の最優等で出て世界一の医師になる。野口英世博士にのように。それにはあきっぽく、おこりっぽい性格をなおし、努力と忍耐が必要だ。こういう野心を吐露している。

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水戸高校から東京帝大経済学部を繰り上げ卒業し日銀に入行。主計中尉としてトラック島で敗戦を迎える。昭和22年28歳で日銀に復帰・30歳では組合専従でにらまれ、以降福岡支店、神戸支店、長崎支店とたらいまわしをされて、41歳で本店に復帰するが、仕事は与えられなかった。

この間、高校時代からたしなんだ俳句は続けていた。伝統俳句に対し、前衛俳句の旗手として活動していく。55歳、27年勤めた日銀を定年退職する。64歳、現代俳句協会会長に就任。67歳、朝日俳壇選者となる。この日の日記には大喜びの様子が記されていたのをほほえましく読んだ。

2004年の85歳で104歳の母を失う。87歳では「土」を教えてくれた妻・皆子が他界。2008年、89歳で文化功労者。2015年96歳では東京新聞で「平和の俳句」の選者。「アベ政治を許さない」を揮毫。文化勲章をもらえなかったのはこれが原因だったのではないだろうか。2018年99歳で死去。

「定住漂泊」。日常も旅であるから外に出ることにこだわらない。日常吟。

「存在者」。種田山頭火に関心。生きるべく生きている人間。存在そのままの生き様をさらす。

「荒凡夫」。小林一茶のいう荒凡夫を、自由で平凡な男と言い換える。「芭蕉に冷淡、蕪村は相手にせず、とことん一茶を追い続けた」。

同世代の一つ年下の伝統俳句の旗手・飯田龍太とは仲の良いライバル関係にあった。兜太は季語、定型、文語、古典を捨てた前衛俳句のリーダーだった。この二人の俳人が開いた広大な眺めが戦後俳句の地平であった。長崎で初めて会って以来の二人の手紙のやり取りや日記によって交流の様子がわかる。龍太は「交響局のなかの低音部のよろしさである」と俳誌に書き、兜太はハガキで「急所にふれた文、うれしいです」と書く送っている。



 

以上は、図録『金子兜太展 しかし日暮れを急がない』(山梨県立文学館)より。

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1.1万歩。

大相撲千秋楽、琴桜初優勝。

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原田治 展 「かわいい」の発見 Osamu Harada: Finding "KAWAII" :: 企画会 & イベント :: 金津創作の森 ...

 
「名言との対話」11月24日。原田治「終始一貫してぼくが考えた『可愛い』の表現方法は明るく、屈託が無く、健康的な表情であること。そこに5%ほどの淋しさや切なさを隠し味ように加味するというものでした」
原田 治(はらだ おさむ、1946年4月27日- 2016年11月24日)は日本イラストレーター。享年70。

東京都出身。「かわいい」の発見者。2006年に刊行した『ぼくの美術帖』を読む。古今東西の美術の本物を見るために、国内外の美術館、博物館、ギャラリー、遺跡、寺院、アトリエ、窯元、骨董屋、古書店などを探検するのが趣味だったことがわかる。美術をめぐる遍歴の旅である。イラストレーターは美術家ではない、という原田はその旅でで感じたことを書いた。私が美術展などで鑑賞した木村荘八鏑木清方鈴木信太郎俵屋宗達岸田劉生などが、俎上にのぼっている。

この中で紹介されている川端実は、原田の師匠の抽象画家である。原田は7歳から絵を習う。18歳の時、画家になろうと川端に相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめ、多摩美大のデザイン科に進学する。美術学校を卒業すると川端先生の住むニューヨークの近くにアパートを借りて指導を受ける。「コスモポリタンである川端実が、ニューヨークの地で次第に東洋の、それも日本民族古来の美意識に近づいてゆくの見るのは感動的なことでした」とある。1975年には、神奈川県立近代美術館で開催された川端の回顧展が催されている。「日本を離れ、日本の画壇からもあえて遠ざかり、それでいて大きな曲線を描いて民族的な日本の美意識に回帰してゆく」。師匠は、「日本への回帰」を果たしたのである。

さて、原田はどうなったか。この本を書くと、本人の心に急激な変化が起こったのである。「若い頃に一度はあきらめていた画家への志望、純粋絵画をこの手で再び描きたいという強い欲求が頭をもたげはじめました」。仕事と都会から離れて完全な孤独の時間を確保するために、太平洋上に浮かぶ島に真白な箱型の「アトリエ」をつくる。この島はどこか調べたが、秘密の壁が高くてなかなかわからない。

原田は幸運にも恵まれ、イラストレーターになり、多忙をきわめる。そして少年時代の画家の夢は60歳になってよやく実現する。2006年の還暦後は1年の半分をこのアトリエで抽象画を描くことに費やした。それから亡くなるまでの10年間、2005年元旦から始めたブログ「原田ノート」を亡くなる5日前まで833回書いた。

日に世田谷文学館で原田治展「かわいい」の発見』をみた。若い女性が多く、キャラクターグッズも売れていた。以下は、そこで見つけた言葉。イラストレーションは「大事なのはテーマや内容にそっていること」「職人的な姿勢」「装幀とは思考を包む単なるパッケージに過ぎない」

「終始一貫してぼくが考えた『可愛い』の表現方法は明るく、屈託が無く、健康的な表情であること。そこに5%ほどの淋しさや切なさを隠し味ように加味するというものでした」と、世界にも広まっている「可愛い」について触れている。「イラストレーションが愛されるためには、どこか普遍的な要素、だれもがわかり、共有することができうる感情を主体とすることです。そういう要素のひとつであると思われる『かわいらしさ』を、ぼくは、この商品デザインの仕事の中で発見したような気がします」。イラストレーターとして実績をあげた「かわいいの発見者」・原田治は抽象画家へ、原田治は最後の10年間は抽象画家になった。少年時代に夢みた自分への回帰を果たしたのだ。