「気の利いた「言葉」は、しばしば良質のブランディを思わせる。一人でしみじみと味わうのもいいし、二、三人で語りあいながら、酔うのも愉しい」(寺山修司)


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寺山修司『両手いっぱいの言葉 413のアフォリズム』(新潮文庫)を読了。

  • 気の利いた「言葉」は、しばしば良質のブランディを思わせる。一人でしみじみと味わうのもいいし、二、三人で語りあいながら、酔うのも愉しい。
  • どんな鳥だって想像力より高く飛ぶことはできないだろう
  • 悪口の中においては、つねに言われている方が主役であり、言っている方は脇役であるという宿命がある
  • 幸福と肉体との関係について考えることは、極めて重要なことであるなる。なぜなら、一冊の「幸福論」を読む時でさえ、問題になるのは読者の肉体のコンディションということだからである
  • 僕は恥ずかしき吃りである。だが、吃るからからこそ、自分の言葉を、自分の口の中でかみしめることができるのだ
  • 生きることは「出会うこと」です。それをおそれて一体何がはじまるというのでしょう。旅をしてみる、新しい歌をおぼえてみる、ちょっと風変わりなドレスを着てみる。気に入った男の子とキスをしてみる、寝てみる、失恋もしてみる、詩も書いてみるーー一つ一つ大げさに考えすぎず、しかし一つ一つを粗末にしすぎないことです
  • 私には「老兵が消え去る」ということがどうしても納得がいかない。人生において命ある限り、戦士の休息はあっても戦士の終焉などあるはずがないのであ
  • 人が死ぬときにはそれぞれにふさわしい死の曲というのがある。自分に似合った曲をききながら息を引きとることができれば、この上ない幸福だと思うべきだろう
  • 書物はしばしば「偉大な小人物」を作るが、人生の方はしばしばもっと素晴らしい「俗悪な大人物」を作ってくれるのだ

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南アルプス悠久の自然 白籏史朗さんと「白い峰」写真展 | 南アルプスNET|南アルプス市芦安山岳館

「名言との対話」11月30日。白籏史朗「白籏史朗は日本一なんかじゃないぞ! 白籏史朗、世界一だぞ!」

白簱 史朗(しらはた しろう、1933年2月23日 - 2019年11月30日)は、日本の山岳写真家。享年86。

故郷の山梨は山に囲まれていた。白籏史朗にとって父の山が鳥海山、母恋の山は高川山だった。1951年から4年間、すでに一家をなしていた写真家・岡田紅陽の内弟子となる。「富士はわが命だ」とする岡田紅陽は56歳、白籏は18歳だった。

「山に登り、山の写真を撮るんだ! 自分の進む道はそれしかない」と、1962年、29歳の白籏は世界初の山岳写真家、プロの山岳写真家になると自らに宣言する。誕生からずっと自作の年譜をつくり、1年ごとに事跡をこまめに加えている。刻苦勉励、精進潔斎の人。計画的で完璧主義者であった。

北アルプス取材は3年間で200日で写真集『北アルプス』を刊行する。富士山の岡田紅陽ならば、北岳の白籏史朗とされるようになる。

  • 「一瞬のシャッター・チャンスを逃す悔しさは、頂上で4時間寒さに耐えるのには変えられん」。
  • 「常に美しいものに接すること。物事に感動する清新で柔軟な心を失わぬこと」。
  • 「日々地道な努力を重ねていると、ある日突然、その努力が花開き、転機が訪れる」

1975年、42歳。アマチュア山岳写真家の会「白い峰」を結成。最盛時は250人の会員を擁している。「霧の中の森林」ではなく、「霧の森林」になど、題名のつけ方にもこだわって指導した。この会は30年続いている。

富士を非凡に撮るのは難しいと言われる。江戸時代からの画家、岡田紅陽ら写真家たちはそれぞれ独自の富士を描くことに苦心を重ねた。白籏は山岳としての魅力を際立たせようとした。「高峰は高みから撮るほどその真実の姿に迫ることができる」という姿勢は独自である。白籏には富士の5冊の写真集があるが、富士は別格の山とし、後に『白籏史朗の百一名山』を世に問うている。

1984年、白籏史朗山岳写真館が山梨県早川町に開設。1991年、南アルプス山岳写真館・白籏史朗記念館。大月市立郷土資料館に白籏史朗写真館。1997年の湯沢町・白籏史朗尾瀬写真美術館。2002年、福島県に白籏史朗写真美術館。

写真集や著作は内外で20冊余。『南アルプス』『ヨーロッパアルプス』『NEPAL HIMARAYA』が写真集ベスト3という評価がある。そして印税はほとんど560日に及ぶヒマラア取材に投入している。取材費は自前であった。

2000年、スイスでキング・アルバート一世功労勲章を受章し、「山岳写真というひとつの分野が世界に認められた」と語った。古稀を過ぎれても元気は衰えない。86歳で天寿を全うした。

井ノ部康之『白嶺の金剛夜叉』を読み、「白髪の赤鬼」の歩みをみて、写真の道、さらに山岳写真道という言葉が思い浮かぶ。一作一作、確実に成長する。停滞はない。成長し続けた人だ。見守ってきた編集者は「白籏史朗の代表作、、、それは次に彼が発表する作品だ」と語っている。かくありたいものだ。

誰も手をつけないところを選び、一生をかけてそれを新しい分野として世界に認知させる。山岳写真道を切りひらいたパイオニアの厳しい生涯には心を打たれる。写真館、記念館で白籏史朗の「世界一」という気概と遺した渾身の作品に接したい。