『ミスター半導体 西澤潤一を父として』(小学館スクエア)を読み終った。
「ミスター半導体」「光通信のパイオニア」「光通信の父」「闘う独創科学者」「異端の研究者」「ノーベル賞にもっと近かった学者」と呼ばれ、あらゆる賞を贈られた工学者であり実学の伝統のある東北大学総長の西澤潤一がたどった光速の人生の、公人以外の娘からみた私人としての実像もわかる労著である。
この本を企画し、著者の高橋恵子さんを励まし、西澤潤一の足跡と姿を残そうとした仙台の友人・志伯知伊さんから10月22日付でに贈られたこの本を隅から隅まで読んだ。西澤潤一という稀代の学者の全体像がわかるという、ある意味で名著であると思う。
「資源の乏しい日本は科学技術で生きていくほかはない」としてその道を脇目もふらず突っ走った西澤潤一。そういう偉人の近くにいるとその風圧で吹き飛ばされる人が多く出る。そういう人たちの名前がでてくる。恵子さんもその一人だった。
西澤潤一はどういう人だったか。
「規格はずれでぶっとんだ人生」「純粋」「茶目っ気」「情に厚い」「人懐っこい」「シャイ」「エネルギーにあふれている」「オーラ」「正直」「敵が多い」「熱烈なファンがいる」「天才」「エネルギー過剰」「視点が遠すぎる」「旺盛な好奇心」「ロマンチストな子煩悩」「真っ向勝負」「人並外れた気力」「コミュニケーション不足」「尋常でない怒り方」「頼まれたらノーと言わない」「強靭な体力と集中力」「無理を道理にする勢い」、、、。
西澤潤一の言葉。「愚直一徹」。「仕事は命がけでするもんだ」。「努力を集結しえた人間だけが、花咲ける人生を謳歌することになることを忘れてはならない」。
「産業のコメ」といわれる半導体が国の興隆に大きく影響を与えるようになっている。伝導体と絶縁体の中間の物質が半導体だ。これを使うことによって、電気の流れを自由に操作できる。それによってカメラ、オーディオ、スマホ、LED照明などが恩恵を受けている。西澤はまさに「ミスター半導体」と呼ばれるにふさわしい科学者だった。
この書には、偉大な父を持ったことの幸と不幸、憎しみと愛情、偉大さと滑稽さの乖離、公人と私人の落差などが、ある種のユーモアをもって語られている。人は片目で人をみる。讃えるか、欠点を暴くかどちらかだ。恵子さんは死後の5年間の時間を経て、両目で父をみている感じがする。それが骨肉の愛というものだろう。
私は「名言との対話」を書くために、優れた人物の妻や娘が死後に回想した本を読む機会が多かった。公人としての偉大な業績をなした人物の意外な欠点や弱点を多く見ている。家族が見る人間像はまた違う。この本はそういった本の中でも出色の出来栄えであると思う。
西澤潤一は宮沢賢治という人物の生き方に関心を持っていた。この本を書くために、あらためて父の足跡を調べた結果、恵子さんは「大好きだった宮沢賢治の人生の自分編を全うしたのかと思う」と結論づけている。「サウイフモノニナリタイ」という宮沢賢治の詩をひいて、西澤潤一は「サウイフモノニナッタ」のであるとしている。
さまざまなエピソードがあったが、パリのマルモッタン・モネ美術館で、睡蓮の作品が逆さまに展示されていることを発見して、現地の新聞で紹介されたことに驚いた。科学者の目である。なにごともゆるがせにしない西澤を彷彿とさせる。
さて、西澤先生との私の縁を少し述べてみたい。
私は1997年に開学した宮城大学に野田一夫学長に請われて赴任し、4年間常に一緒に行動した。ある時、野田先生と西澤先生との会食に同伴したことがある。西澤先生は、日本の電力問題は発電所から引く導線の抵抗で失われるエネルギーを最小にする研究が進んでおり、大陸の過疎地に発電所ができて、問題が解決する可能性があると語っていた記憶がある。この時は、西澤先生は温厚な紳士という印象だった。
後で野田先生から、西澤さんは東北大学総長となったが、実は工学部長は経験していない。あまり激しすぎて身近な人たちには敵が多い。本人を知らない人はその業績に頭を垂れる。だから総長になったという解説だった。
私の酒友であったシンセサイザーの富田勲先生との会話の中で、はとこであった西澤先生のことが何度かでてきた。西澤さんにいわれて、「イートハーブ交響曲」をつくったということだった。
また仙台のライオンズクラブで昼食セミナーに招かれたことがある。真正面の前の席に西澤先生が座っているのを発見して驚いた。この日の演題は「勉強してはいけない!」だった。このタイトルの本を出した直後だった。欧米のマネをせずに自前の創造をやっていこうということであり、西澤先生とはレベルは違うが同じだろうと考えて喋った。
終わって、「勉強しなくてよいということで安心した」という参加者の感想があり、私は「違います。勉強してはいけない、です」と応答して場が沸いた。司会は同年の友人・松良さんだった。
この本を志伯さんからいただいたおかげで、いくつか仙台時代のことを懐かしく思いだすことができた。感謝したい。
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「名言との対話」12月1日。志村正順「アナウンサーは職人であるから、権力や出世を目指してはいけない」
志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。享年94。
NHKで主に大相撲、プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した名アナウンサーである。主なものをだけでも、明治神宮外苑陸上競技場で挙行された学徒出陣壮行会、マッカーサー元帥離日中継。NHK開局第一声となるアナウンス、ボクシングの白井義男・エスピノザ戦、プロレスの力道山対シャープ兄弟戦、長島がホームランを打った天覧試合、、、。ラジオ時代からテレビの曙の時代を、多くの国民は志村アナウンサーとともに生きた。戦後は放送の民主化が行われて誕生した「話の泉」「二十の扉」、また「アメリカ便り」も人気があった。通信文が遅れると下読みなしでマイクに向かうことになるのだが、問題なくこなす。そのコツは「右の目で読みながら、左の目で三行先を追う」だった。
志村の技を表す言葉は、 「スポーツの語り部」、「声の軽機関銃」、「デパート式アナウンサー」、「お祭りポンタ」、などがある。スポーツ界のあらゆる種目をこなしたが、もっとも有名なのは、相撲と野球だ。
相撲の名解説者・神風を世に送り出した。志村は相撲の取り組み中に解説者に二言、三言しゃべってもらうという新しい形式を発明した。後に神風はNHK放送文化賞を受賞している。実況放送で重要なことは、三度繰り返すことだという。「さあ立った、さあ立った、さあ立った。吊りだし栃錦の勝ち」という具合だ。
「えーぇ、何と申しましょうか」で有名な、プロ野球解説者の小西得郎の味わい深い名解説は一世を風靡した。志村には即時描写の能力があり、「サーカスプレー!」「鉄砲肩ァ!」「韋駄天も及ばない」「手を入れると青く染まりそうな空」など詩的で豊富な表現力を持ち合わせていた。
ラジオ全盛時代は、「和田ー志村時代」と呼ぶ人もいる。格調の高い調子の和田信賢は志村が師事した名アナウンサーだ。和田の業績を記念してNHKが創設した「和田賞」の第一回受賞者は軽快さと自由自在の志村だった。
日本相撲協会からも長年の功績を認められている。「相撲放送は志村をもって嚆矢とし、志村をもって終焉す」だ。野球では、史上初の放送関係者の野球殿堂入りを果たしている。
神風との相撲、小西得郎との野球の名コンビは当時の誰でも知っていた。子ども時代の私も志村の解説を興奮しながら聞いたものだ。解説者の特徴をよくつかんで聞かせどころをうまく引き出すアナウンサーだった。解説者は馬で、アナウンサーは馬子であるという名言も吐いている。
ラジオはアナウンサーの一人天下だが、チームワーク重視のテレビには向かない。沈黙の苦痛が強いられる。 テレビオリンピックの東京オリンピック、そして衛星放送の登場は、志村時代を過去のものとしていく。志村は76歳で再婚する。妻は60歳であった。
「双葉破る!双葉破る!双葉破る!時に昭和14年1月15日、、、」と絶叫した和田信賢、志村正順以降は、八木治郎、高橋恵三、宮田輝、小川宏、志村の薫陶を受けた木島則夫、「最後の職人アナウンサー」鈴木健二、、、などが思い浮かぶ。木島則夫に対しては、懸命に取り組んだ教養番組「生活の知恵」をやめることになったとき、志村部長は「君の責任は終わったのだ。済んだことだと思ってあきらめなさい」と諭している。引き際を知っていたのだ。
「アナウンサーは職人であるから、権力や出世を目指してはいけない」という人生観で、出世を拒否しようとする態度は一貫している。志村はNHK初の専属アナウンサーだった。「ラジオの父」という異称もある。現場が好きな職人アナウンサーであった。