『図解の技術 大全』の見本を10冊受け取った。
日本実業出版社の安村さんと新宿「わらやき屋」で会食。重厚なデザインで、ずっしりと重い。「大全」という名にふさわしい。企画から5年程かかった作品ということで、二人で感慨を持ちながら乾杯。デザインは週刊ダイヤモンドのデザインを担当している萩原睦さん。いい本になった。
はじめに
1990年、はじめての単著『図解の技術』を刊行し、話題となりました。
これがきっかけとなり、1997年に野田一夫先生から「図解を教育界に入れてほしい」との要請をいただき、仙台に開学した宮城大学(県立・野田一夫学長)へと転身することになりました。大学の授業やゼミ(顧客満足ゼミ)で、図解という武器を用いて地域活性化というテーマに取り組むという得難い経験をさせていただきました。
2002年には、日本経済新聞社から出版した『図で考える人は仕事ができる』がベストセラーとなり、企業や自治体をはじめとするさまざまな業界から、講演や研修の依頼をいただき、すべてお引き受けしてまいりました。
この過程で、数百にのぼる現場を「図解」という視点で観察する貴重な機会を得ることができました。そして様々な出版社からのご要請をいただき、これまでに100冊を超える著書を刊行することができました。
2020年、私たちはコロナ禍に襲われました。大学の専任を退任する時期でもあり、「図解コミュニケーション」について書いてきた論考をまとめようと、『図解コミュニケーション全集』全10巻の刊行を企図いたしました。第1巻「原論編」から始まり、「技術編」「実践編」「展開編」「応用編」を経て、2024年9月には第9巻「応用編3 日本探検」を刊行するに至りました。
本書、『図解の技術 大全』は、全集の総集編ともいえ、全集の第10巻目としても位置付けています。これにより、足かけ5年ほどの期間をかけた「図解コミュニケーション全集」全10巻の大プロジェクトが完結することとなりました。
「文章至上主義と箇条書き信仰」に侵されたあらゆる職場に、「全体の構造と部分同士の関係」を表現できる「図解」を用いて、上下左右のコミュニケーションの活性化を図ろうとする「図解革命」を推進してまいりました。どのような仕事であれ、そこに存在する問題や課題を解決しなければなりません。そのためには、鳥の目で全体を俯瞰すると同時に、虫の目で問題の箇所を見つめ近隣とのもつれた関係をときほぐすことが求められます。誤解や曲解がつきまとう文章や箇条書きでは、コミュニケーションに大小のトラブルが生じることになります。問題の解決とは、全体の構造を変革することであり、部分同士の関係を変えることでしょう。
仕事とは、さらに言えば、経営とはコミュニケーション活動です。その活性化のために図解コミュニケーションの考え方と方法・技術を用いるならば、大きな成果を望めると確信しています。
この「図解コミュニケーション」の研究の過程で、私を育てていただいたNPO法人知的生産の技術研究会(八木哲郎創業)の3人の顧問の先生方からは、次のような励ましをいただいています。
梅棹忠夫先生からは、国立民族学博物館の館長室で、図解について「これは曼荼羅だ。自分は図解のことをマンダライゼーションと呼んでいる」と、励ましの言葉をいただき、士気が高まりました。
野田一夫先生からは「日本初の『図解革命』は今なお進行中です。『図解コミュニケーション全集』全10巻が完成すれば、『図解革命』の経典となることでしょう」とのありがたいメッセージををいただいております。
寺島実郎先生からは「図解によって意思疎通を深め、時代の課題の解決のために行動しようという愚直なまでの情熱があることに気づく。一隅を照らす人生に、こういうアプローチもあるのか、と心が熱くなる」という温かいお言葉をいただきました。
いま振り返りますと、「図解コミュニケーション」は単なる技術ではなく、ひとつの思想だと考えるようになってまいりました。理解、企画、伝達のすべてのコミュニケーションに有効ですが、特に「企画・創造・構想」、つまり「考える」ことに大きな威力を発揮することが本質です。
「考える力」の衰退、欠如こそが、日本の課題であると考えています。そこを突破する有力な答えの一つが図解であると考えております。その理論と方法論の一応の完成をみ
た段階にあります。この「大全」をお読みいただく中で、さらに詳しく学びたい方は、各巻を参考にしていただければありがたいと存じます。
「図解」に初めて接する方は図解ワールドへの入り口として、関心の高かった方は体系的理解のためにお読みいただければ幸いです。
この本は「図解王が伝授!」ということになっています。台湾で翻訳出版された本の表紙で、著者の私のことを「図解王」と呼んでいることを発見しており、それを使わせてもらいました。
最後に、これまでご縁のあった方々に深い感謝を捧げたいと存じます。また、初の単著『図解の技術』の発行元である日本実業出版社が、刊行をお引き受けいただいたことに感謝申し上げます。
なかなかの難産でありましたが、なんとか完成に至ることができましたのは、編集部の粘り強い激励があったからこそです。ここに記して心より感謝申し上げます。
2024年11月 久恒啓一
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- 小中陽太郎先生が本日(3日)亡くなった。
- 『忘れたくない日本人』(滝和子監修)が到着。
- 蜃気楼大学の一日学長のメッセージ
- 「革命」のクラファンの原稿
- 五木寛之の日刊ゲンダイの「流されゆく日々」が1万2千回を達成。
- 坂村健「AI時代のリカレント教育」
- 菊池寛『大衆明治史・上』
- 千葉敦子『「死への準備」日記』
- 守屋洋『荘子の人間学』
- 新渡戸稲造『武士道』(奈良本達也訳)
- 新田次郎『河童火事』
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「名言との対話」12月3日。新井満「美しいものを発見して伝えることをライフワークとして生きていきたい」
新井 満(あらい まん、1946年〈昭和21年〉5月7日 - 2021年〈令和3年〉12月3日)は、作家、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家。本名、新井満(あらいみつる)。享年75。
新潟市出身。1970年、上智大学法学部法律学科卒業後、(株)電通に入社。1974年、日本酒CMの仕事で森敦と出会う。1976年、森敦「月山」の文章に曲を付けた「組曲・月山」(キングレコード)を発表した。
1977年、カネボウCMソング『ワインカラーのときめき』(阿久悠作詞、森田公一作曲、新井満歌)が50万枚のヒットとなる。1986年、第一作となる小説「サンセットビーチホテル」で第95回芥川賞候補となる。1987年、「ヴェクサシオン」で第9回野間文芸新人賞を受賞。1988年、「尋ね人の時間」で、第99回芥川賞を受賞。
1998年には長野冬季オリンピック開幕式のイメージ監督。2001年、作曲した『千の風になって』を歌う。秋川雅史らが歌い、100万枚を超える大ヒットとなった。2003(平成15)年5月、日本ペンクラブ常務理事となり、絵秘話と環境を担当した。
「千の風になって」で、2007年レコード大賞作曲賞。2009年、平城遷都1300年記念事業で歌謡「万葉恋歌 ああ、君待つと」の作曲を担当。電通の業務で携わった映像制作を語る『環境ビデオの時代』(1990・2 主婦の友社)、エリック・サティを題材とした小説・写真集『オンフルールの少年』(1992・12 マガジンハウス)、『自由訳般若心経』(2005・12 朝日新聞社)を始めとした自由訳シリーズがある。妻・紀子との共著『ハイジ紀行』(1994・1 白泉社)など、著作分野の幅が広い。
2006年に電通を定年退職し、2010年には妻の希望に沿い横浜市から北海道亀田郡七飯町に移住。
シンガーソングライター・新井満については、「ワインカラーのときめき」や、「千の風になって」という名曲で知っている。そして『自由訳般若心経』などを読んだことがある。そして電通マンであり、二刀流であったことに関心を持っていた。
今回、NHK人物録をみてみた。上智大学時代の重病を脱出したあと、連翹(レンギョウ)の花があまりに美しいので見知らぬ人に見てくださいと声をかけたら、「確かにきれいだ。教えてくれてありがとう」と言われる。この時、「美しいものを発見して伝えることをライフワークとして生きていきたい」と誓った。
「千の風になって」は、妻を亡くした友人を慰めようと、書き手のわからない追悼文集の英詩を自分で翻訳してつくった私家版のCDが、思いがけず多くの人の胸をうって大ヒットした。私は風になって、光、雪、鳥、星として大きな空を吹きわたる。死んだのではない、大自然そのものなってあなたを見守っています。そういうメッセージに多くの人が救われたのだ。
この曲を聴いた人たちから5000通の手紙をもらっている。「一生分の涙を流しました」という手紙。その涙は温かい涙だった。さんざん泣いた後は何か気持ちがすっきりして生きる勇気と希望がわいてきたと書いてあった。死を考えることはいかに生きるべきかを考えること。あの人の分まで生きてあげようと思うのが一番の供養ではないかと語っている。
学生時代に「美しいものを発見して伝えることをライフワークとして生きていきたい」と誓った新井満は、公人としてのCMディレクターと個人としてのシンガーソングライターとしても活動した。使命感を胸に好きな道を歩んだのだ。その結果が「傷ついた人に対して癒そうとアクションを起こした人だけが、初めて自分も癒される」という言葉になったのであろう。