『忘れたくない日本人』(あまやどり出版。滝和子監修)ーーー高度成長期に日本人が得たもの、そして失ったもの。

高度経済成長と共に生きた25人にインタビューした『忘れたくない日本人』(あまやどり出版。滝和子監修)を読了。

63年と長かった「昭和」には、混乱期(1926-1954年)、高度成長期(1955-1973年)、安定成長期(1974-1989年)の3期ある。この本は、特に生活が激変した高度成長期(’1955-1973年)に焦点をあてている。日本史上でもまれな時代を、日本人がいかに生きたかを、その時代を全く知らない後続の世代が感じようとするプロジェクトだ。

このインタビュー本は、語り手23組、聞き手19名、編集者12名で、のべ55名の素人が参加したビッグプロジェクトだ。取材時点の語り手の年齢は80歳前後から90代だ。ごく普通の田舎の庶民の日常生活が描かれている。

兄弟が多い。大家族。電化製品のラッシュ。貧乏。恐いのは親父。お見合い中心から恋愛結婚へ。遊び。チョコレート、ココア、カルピス。社員旅行。人気テレビ番組。集団就職。給食の始まり。憧れの職業。戦争の影響。半ドン。女中奉公。金の卵。給料が2倍、3倍に。、、、、、、、。

この世代は、私の父母から兄姉という世代だから、団塊世代の私も子ども時代に目撃していることが多く、懐かしく、温かい気持ちで読んだ。

  • 全員が子ども頃は幸せだったと語っている。(今の子どもたちの幸せ感とはだいぶ違う)
  • 年齢が高くなると見合いがほとんどで、しだいに恋愛が多くなる。「自由恋愛」と自由をつける人が数人いた。(今は単なる恋愛だ。当たり前になって、自由という喜びはない)
  • 暮らしは貧しかったが不満は感じていない。(今は不満が充満している)
  • 差があることがスタンダードでなんとも思わなかった。(今は嫉妬感に満ちたメディアの情報が流れてくる)
  • 今はハレとケの違いがないので感動がない。(高度成長期のような感動はなかなか味わえない)
  • 「辛抱」とは己に打ち勝ち、与えられた状況の中で本分を尽くすこと。他人との比較ではない、何事も辛抱が一番大事。(辛抱という言葉は死語になった)
  • 人気職業はスチュワーデス、エアガール、パイロット、銀行員、看護婦など。就いた職業は農業、工場労働者、教職、洋裁、、、。(人気職業と実際に就く職業は違うのはあまり変わらない。制度や組織が固まってきてサラリーマンが多くなっている)
  • 企業が人を育てる仕組みがあった。(日本的経営の根幹であった人を大事にする仕組みが消えつつある)
  • 人間は時代にあわせてどうにでも変われると実感。(固定化してきた価値観が徐々に変化している)
  • 幸せについて。今の伴侶との生活。女房と子供たちと一緒に暮らしたこと。(家族との生活が幸せの基本。その家族のカタチが崩れてきた)

母親が川で選択をしていた時代から自動洗濯機、屋内の乾燥機の時代への大変化を「古代から現代を一気に駆け抜けたような人生だった」と語る人がいたように、「一身にして二生を生きた」ことがわかる内容だった。このような感覚は、日本史上では「明治維新」と戦後の「高度成長期」の2回しかないから、貴重な証言の記録である。

得たものは生活の向上だったことは明らかだ。失ったものは以上の記述の括弧でくくったところだろうか。

この大プロジェクトに2年間参加したメンバーの絆は強いはずだ。一つのコミュニティができあがっていることがわかる。それは貴重な財産だ。書物で歴史を学ぶことも必要だが、こういうかたちの歴史認識の方法を重ねることによって、参加者たちは独自の情報を吸収し、自前の歴史観が形成されていくはずだ。感動を覚える。さて、次のプロジェクトは何だろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

Sensei Hirokazu Kanazawa | Karate Martial Arts

「名言との対話」12月8日。金澤弘和「おこらない、いばらない、おそれない」

金澤 弘和(かなざわ ひろかず、1931年(昭和6年)5月3日 - 2019年(令和元年)12月8日)は、空手家。享年88。

岩手県生まれ。拓殖大学空手部在籍時より松濤館流空手の開祖である船越義珍日本空手協会設立者の中山正敏らに空手道を学んだ。卒業後、日本空手協会の第一期研修生となる。1957年、1958年の日本空手協会主催の全国大会で2年連続優勝を果たす。海外へ空手を普及する先陣を切って、1960年からハワイを皮切りにイギリス、ドイツなど世界各地で空手を指導し、空手を世界に普及した基盤を確立した。「調和の哲学」に基づいた空手で、世界100ヵ国以上で指導し、「世界のカナザワ」「センセイ・カナザワ」の異名をもらう。

1977年、日本空手協会から除名され、師と仰いだ中山正敏から別れることになった。このとき、「空手の原点に帰ろう。「空」は可能性だ。これからは自分を修めるための空手に重きを置こう」と考え、1978年、國際松濤館空手道連盟を設立した。映像で「間と呼吸」を大事にする「型と組手」の演武をする映像をみたが、見事なものだった。

70歳で書いた自叙伝『我が空手人生』(日本武道館)を読んだ。人間には「天命」があるという空手という一本道を歩んだ男の自叙伝だ。

まず最初に感じたことは、人格形成に故郷の父母の教えが強い影響を与えていることだ。父の教えは「どの分野でもよいから一所懸命やれ、曲がったことはするな」「特性を生かしなさい」「強い者は、自分から決して喧嘩をしない」。そして母の教えは「人様の気がつかない所、人様の嫌がる所を進んで掃除しなさい」「金と女で人格が変わるようでは、本物の男ではない」「弱い者とは、自分より弱い者をいじめる者」を記述している。また、お世話になった指導者や空手を通じて得た異分野の偉い人たちの言動からも学んでいる。素直に人から学ぶという姿勢が金澤弘和の特徴だと思う。

私の父が拓殖大学の卒業生であり、「教育大前」というバス停を「拓大前」と変えさせようとしたえぴーどなどは父から聞いいて、父を思い出した。

金澤弘和は70歳、80歳になっても続けられる空手、長く続けられる空手を目指しており、「30代には50代のことを想定した努力を重ね、50代には70代を想定した努力を重ねた。私が理想とする空手道は、弱い人間や女性が習得でき、老人になればなるほど強くなっていけるものである」という。

「60代に入ると、気力の年代に入る。気功法を中心とした練習に切り替えていく。筋力、内臓力は加齢とともに落ちるが、気力、精神力は加齢とともに深まっていく可能性がある」。

そして古希を迎えたときには、「知れば知るほど、登れば登るほど山が高くなり、尽くせば尽くすほど、極めれば極めるほど、限りなく深く、終りのないのが我が空手人生である」と最後に語っている。87歳、亡くなる1年前の「花は桜木 人は武士」と色紙に書いている写真もある。

この人は「空手一筋」ではない。柔術、ボクシング、合気道、相撲、太極拳など、さまざまな武術やスポーツを学んでいる。空手しか知らない人間には限界がある。空手しか知らなかったら、全く知らない想像もつなかい相手があらわれたら対処できない。実戦には空手以外の筋肉や反射神経も必要という考えだった。この言葉を効いて思いだすのは1964年の東京オリンピック無差別級で金メダルをとったヘーシンクだ。この人も日本人柔道家・沼上伯の指導を受けて、柔道以外にもランニング、フットボールウェイトトレーニングレスリング、水泳などあらゆることをさせて、総合的で頑強な身体をつくりあげた。ヘーシンクは沼上の指導によく応え、アルコールを慎み、タバコも口にしないで、柔道一直線の鍛錬の日々を送っていた。それに日本のエース・神永昭が敗れたのである。

生涯の友として空手道の道を歩み、「おこらない、いばらない、おそれない」をモットーとした金澤弘和の人生は、精進、修養、求道の道である。ただ強くなるのが目的ではなく、健康長寿を強く意識したこの人の空手道は、年齢を重ねながら、カラダからココロに移行していく空手だろうか。人生100年時代の空手道だと理解した。

我が空手人生